5 人間、この両義的な生き物

 

杉本:少し老いの話が中心になっちゃってしまいましたけど、身体と言葉っていうところでの発達の話なんですよね。

 

浜田:それはでも議論し始めると大変で、こういう話はなかなかのらないんじゃないかと思うんだけど。

 

杉本:いやいや。僕は関心があるんですけどね。

 

浜田:(笑)そうですか。

 

杉本:というか、必要じゃないかと思うんですけど。

 

浜田:そうですよ、僕もそれはそう思ってやってきているわけですからね。

 

杉本:あえて言っちゃえばワロン的なる発達論と無理やり言っちゃいますけども、浜田先生の発達論でいいんですが、身体と言葉にどういう形成が起こるのかということですけれども。で、ご本を読むとやっぱり人間というのは、ものすごく両義性がある生き物だと思ったんですよね。

 

浜田:そうですね。

 

杉本:人間って、個体として個別性は間違いなくあるんだけども、必ず他者を含めないと成り立たないという。

 

浜田:そうそう。

 

杉本:つまり共同性としてある生きもの。だから赤ん坊が大人の唇を開閉するとメカニカルというか機械的に真似てしまう。それも哲学的になんでだろうか?っていう説があったり。

 

浜田:個々の生まれたての赤ちゃんが持ってるメカニズムというのもありますけど、ごく普通に考えて人は身体を持ってるわけですから。だから身体はもう人と別々だ、ということ。これはもう誰もがわかることで、生まれるのも一人、死ぬのも一人という個別性を持っている。けれどもう片方で身体は人に見えるわけですよ。人様にさらしてる。その生きざまを。つまり見えないでいる、透明人間であるわけにはいかないっていうことですね。

 

杉本:そうですねえ。

 

浜田:で、身体は表現してしまうわけですよ。表現を一切断った身体っていうのはあり得ないわけです。寝てても寝苦しかったり、健やかに寝てたりという。身体があるってことはもうその人は表現してるっていうことなんです。で、人は自分の身体でもって何かを表現して生きざるをえない生き物なんです。そう考えると身体を持ってるということはもう、個別的なんだけど共同的なことでもあるんです。そこをどうやって記述するかっていうことを抜きにして、個人の中に能力が積みあがっていく過程としてのみ考えるという発想では、発達は見えてこない。見逃してしまうとこがたくさんあるということなんです。そういう議論をやってはきましたけども、なかなかやっぱり発達論としては定着しないところがあって、ワロンなども結局、定着してないですけど。気にする人は多いんですけどね。ワロンはちょっと違うこと言ってる、みたいなね。だから勉強したいと思う人がいる。そこはきちんとひとつの理論的な形にしていくって作業が必要なんだろうと思うんです。それをやろうとしてる人もいる。川田(学)さんなんかもそうなんだと思いますけど。

 

杉本:ええ、ええ。先生のお話の中では、「見る見られる」、「能動と受動の関係」とか、もう一段行くと「三項関係」とか、そこら辺の説明をいただけませんか?

 

浜田:(笑)それ、いま言葉でいうの難しいですよ。本を読めばわかるし(笑)。

 

杉本:こういう発達理論があるのかという。そうですね、確かに難しいだろうなあと思います…。

 

 

 

人間の個別性と共同性

 

浜田:だけどもまあ、なんて言うのかな。例えば個別性とか共同性という言葉で人は両義的であるということについてはいま言ったようなことですけども、個別性の方が比較的わかりやすいんですよね。実感的に誰もが持ってるから。だけど共同的な方はなかなかわかりづらいところがあって。それは具体的な現象として説明しないとわからないということで、ひとつは相手と同じ形をとってしまうという「同型性」。これはおのずとそうなってしまって、生まれつきそういう構図を私たちの頭の中、身体の中に備えてしまっている。それが脳科学的にはミラー・ニューロンみたいなもの。鏡で映す、ミラーですね。ミラーの神経細胞。ミラー・ニューロンみたいなのがあるっていうふうにいわれます。確かにその通りで、確かに身体のメカニズムによって支えられなければ相手と同じ形をとれないわけですから。

 

杉本:なるほど。

 

浜田:別に脳科学的な裏付けがあるかどうかということは別としてね、理屈の上で相手と同じ形をとるってことは現象としてごく自然に行われて生まれつきあるということと、それから目が合うという現象も、目が合うというのは単に目を見てるのではなくて、「自分が見てると同時に相手に見られてる」。で眼球を見るというのと、見られてるというのは違うわけで。眼球として、相手の眼球を対象として見るということと、相手がもう一人の主体として自分を見ている、こちらは見られてるっていう風に思う。

 

杉本:見られてるってことですね。

 

浜田:だから決して眼球を人は見てるわけではない。もちろん見ることも可能なんだけど。眼球を見るって形じゃなくて、相手の「まなざしを受け止めてる」っていう形。で、それは言い方として、入口でいえば能動受動のやりとり。自分が相手に働きかけると同時に、相手の働きかけを自分は受け止めている。そういう構図がもう最初からあるんだと。もちろん新生児の段階では見てない目をしてるので、それは見えないんだけど、12カ月すると目が合うようになる。ごく自然に目が合うようになる。それは実に不思議なことだという認識をまずは持たないといけないでしょう。だから能動的に人が動くんじゃなくて、人の能動を受け止める、もう一人の主体をそこに感じているということが人が関係をもっていく上で非常に基本的なものになっている。つまり相手と同じ形をとる同型性ということと、相手の能動を受け止めるということ。この二つが「共同性」として非常に大きな役割を果たしている。なんというのかな?「相手の能動を受け止める」ということの意味みたいなところが発達的にあまり議論されてこなかったんですよね。個人の能力がどう伸びてくのかってところしか見ないできたので。

 

杉本:そこにやっぱりしびれたところで、むしろ見られるとかね、そういう部分。受動性の方がある意味、人間が他者と関係をつくる上で重要なことなんだ、っていう。

 

浜田:そうそうそう。

 

杉本:受動性を強調してるところが浜田先生の本にはあって。そこは…。

 

浜田:当たり前の話なんですけどね。

 

杉本:でも僕はそこがすごいって思ったんですね。そうかもしれないし、おそらくそうだと思った。

 

 

 

受動の嵐を受けながら、人は主体に目覚める

 

浜田:だからとりわけ生まれて一年間というのは自分から動ける範囲は限られますから。

 

杉本:そうですよね。

 

浜田:ところが周りに人がいっぱいいて、その周りの人たちは赤ちゃんにいろんな関わり方をするわけです。

 

杉本:抱かれていくわけですよね。

 

浜田:抱かれもするし、触られもするし、声もかけられるし。いろんな形で関わられるわけですよね。身の周りにいろんな主体がいるわけですよ。で、逆に赤ちゃんの側からすると、相手の主体性を受け止める機会がめちゃくちゃ多いわけですよ。だから受動は非常に重要なんだと。だからある意味で生後1年目って人生の中で一番受動の嵐の中にいる。いろんな他者に囲まれて、受動の嵐の中で自分の主体に逆に目覚めていくんですよね。主体が目覚めていくんです。周囲の主体の能動的な働きかけの渦の中で。自分が能動的な主体として登場し始める。そういう構図で発達というものを描かないと見えてこないんじゃないかって思うんですよね。ある部分は当たり前かもしれないけど、なかなかそういう記述の仕方を心理学者、発達心理学者はしないんですよね。能力の獲得として見てしまう。だけど逆に、他者からの能動の嵐、自分が受動の嵐の中にいることが難しいハンディを持った子たちね。どうやって大きくなるんだ、って話になりますから。自閉症の問題なんかもそういう自閉症状が形成されてくるプロセスを追っかけるという作業が必要だと思ってます。

 

杉本:なるほど。

 

浜田:だからこういう障害があるってことじゃなくて、その障害と呼ばれてる症状が形成されてくる発達的なプロセスがあるわけですね。それを追ってみないと見えないでしょうって思ってる。だから自閉の人たちは羞恥心を持てないということもそうで、”能動受動のやり取り関係の難しさ”が結果的にいうと言葉のやり取りの難しさを作りだすし、もちろん言葉が出てきても能動受動の関係になかなかならない中で、「内なる他者」が形成しずらいという構図というものは見えてくるだろう。そうすると自閉症の人たちの羞恥心の形成の難しさというのはやっぱり見えるんですよ。

 

杉本:他者を意識しないと羞恥心は見えませんよね、芽生えませんよね。

 

浜田:そういうことです。他者を意識するって時に他者がいるから意識するんではなくて、他者が自分にまなざしを向けているから意識するわけじゃなくて、他者という存在があるだけで、そこでもうすでに私たちは相手の目を意識しているでしょう?

 

杉本:全然関係ない人がいても私は何の接点のない人であれ、何らかの羞恥心、恥じらうふるまいをしているわけですね。

 

 

 

羞恥心への囚われー「内なる他者」

 

浜田:羞恥心というものも、普通は人から変だと思われるところがあるから感じるものだっていう定義。簡単に言えばそうですけど、人から劣ってるとか、汚いとかそういう風にみられるようなものを持っていて、それが人様にさらされることを羞恥するっていう風に言われやすいですけど、だけど人から直接見られ、「あんたおかしいね」って言われて羞恥心を感じるわけではないんですよね。本の中にも書いたと思いますけど、四肢欠損の女の子が初めて義手を外してプールサイドに立った時にプールサイドに出たとたん羞恥心に駆られる。誰もまだ見てない、みんなプールで遊んでるだけ。見られてないのに羞恥心の虜になってしまうという構図になる。それは自分の中に「見られる自分」がいるから。誰も見てないのに見られる自分がいる。見る自分、じゃあ誰が見てるのか?というと「内なる他者」が見てるっていうことですね。

 

杉本:自分の中に取り込んだ他人が、自分自身を見てるってことですね。

 

浜田:そうそう。

 

杉本:それぐらいに社会性みたいなものを取り込むわけですね。思春期以降、特に。で、そういう形で人々は社会の中に出てきて、活動を始めていると…。

 

浜田:だから自閉の人たちがそれができないのは、つまりそういう内なる他者を形成するのが難しいから。やりとり関係が自分に形成されるための内なる他者を持てない。だから羞恥心が持てない。羞恥心を持てないことで社会的に「この場ではこれが○○される」って行動が身につかない。ここではこうするものですよって、いちいち一つ一つここではこうする、ここではこうする、って教えないかぎりはそれができない。恥ずかしいからしないんじゃなくて、ここではこういうことはしなってことになっているのでしないって教え込み方をすればどうにかできるけど、内側から恥ずかしいからしないって風にはならない。

 

杉本:外側からのルールとして教え込むんですね。

 

浜田:そう、教え込むんですね、結局。例えば裸になっても平気ですから。だから外に出るときはちゃんと服を着ましょう、って言わなきゃダメだっていう。

 

杉本:他者性は育ちませんか?やはりほんとの自閉症のかただと。

 

浜田:難しいんですよね、それはね。だから結構難しいんですよ。例えば普通もう大きな大人がしないようなことを平気でできるわけですよね。例えば電車に乗った時に、子どもみたいに座席の方にぎゅっ、と窓の方を向いて座る。

 

杉本:大人の人ですか?

 

浜田:大人の自閉の人はね。

 

杉本:なるほどねえ。

 

浜田:だからぜんぜん平気なんですよね。それも景色を見ようと思ったらそうやって見るのが一番ですから。だけどそういうハンデ持ってない人だったら恥ずかしくてできないわけです。やろうと思ってもできない。

 

杉本:やろうと思ってもできません、確かに。やろうと思ったらアナキストみたいにならにゃいかん(笑)

 

浜田:(笑)そら、いっそ役者になったつもりで「ここで演じるんだあ」とやってね。面白い人間を演じるってことならできるかもしれませんけど。

 

杉本:それは不自然なことであって、自然なことではない。

 

浜田:そうそう。

 

杉本:面白いですよねえ。だからどんなにか、いわゆる自然な状態で他人、他者性を自分の中、その内側に他人のふるまいとか、他人の嗜好性みたいなものをそんなにたくさん自分の中に入れ込んでるものなのか、と。いったいいつから…。知らないうちからなんでしょうけどねえ。

 

浜田:岩波現代文庫に書いたやつは読んでいただけました?もともと『ありのままを生きる』っていう本で出たんですけど。それを岩波現代文庫にしたとき、『障害と子どもたちの生きるかたち』で出たのだったかな?

 

杉本:ああ、amazonにはありましたね。

 

浜田:ありました?それは文庫本ですから読みやすいのと、その中に僕が付き合ってた自閉症の人の話とか、四肢欠損の人の話とか、『私とは何か』の中にも入れてますけど、エピソードをいっぱい入っているので、もしよかったら読んでみてください。

 

「内なる他者」と「自我二重性」

 

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川田学 北海道大学大学院教育学研究院 附属子ども発達臨床研究センター准教授。川田先生のインタビューは201611月掲載のものを参照していただきたい。https://www.kenjisugimoto.net/インタビュー/川田学さん-北海道大学大学院教育学研究院-個になりながら-内側に他者を育む/

 

URL https://www.edu.hokudai.ac.jp/graduate_school/profile/%E5%B7%9D%E7%94%B0%E3%80%80%E5%AD%A6/