アナルコ・サンディカリズム

 

――なるほど。それで米騒動を見て、そのあとサンディカリズムという労働者蜂起というか。その後の大杉は労働者による闘いということを考えて、とりあえずそれがひとつの結論になった人ですよね。

 

栗原 そうですね。ただこれは結構大杉が死んじゃったあとに議論が分かれちゃったりするところではあるんですけど、難しいところで、「アナルコ・サンディカリズム」というのはちょっと微妙な考え方なんです。

 

――アナルコ、というのは?

 

栗原 アナキズムです。サンディカリズムはフランス語で急進的な労働組合主義のことです。で、ほんらいアナキズムの発想からすると、今日ずっと喋ってきたような「反労働」みたいになったりするわけで、労働そのものを疑っていく。もちろんサンディカリズムの発想ってアナキズムに近かったりするわけです。つまり普通の労働組合の組織とか作ったりしても経営者が工場に縛っているのと一緒で、組織の中で労働者が労働者を縛ってもダメでしょう、指導者とかを作ってもダメでしょうと。どっちかというとそういう関係をなくしていく。指導者に交渉してもらって経営者からお金をとるみたいな運動じゃダメなんだと。どちらかというと下から労働者が立ち上がって自分たちの力で直接行動で金をもぎとったり、生きる術を見だしたりして、究極的には自主管理でやりましょうと。その自主性とか自律性という点で資本の論理から突き抜けましょう、という点ではアナキズムに近いんです。とはいえ、あくまで「労働者としての誇りをもつ」ではあったりするんです。だからそのへんでそこからも抜けていいんじゃないかという議論とは分かれてくるところ。

 

――基本的にはそうですね。労働者であるということはそれだけでやはり賃金労働者である以上、どこかで支配されているところがある。まさに「はたらかないで、たらふく食べたい」じゃないですけど。特にいまのようにサービス産業が中心になってくると、楽しくなくても笑顔でなくちゃいけないとか、ものすごくいろいろ感情労働みたいな部分が多くなってきて。自主管理から遠くなってきている。

 

栗原 それが自律的な働きかただといわれてますけど。

 

――とはいえ、感情の表出もふくめた自分の身体性までが、お金のためのものになってしまうから…。

 

栗原 ええ。いっとき、IT労働者とかは、人から縛られずに自分で考えてはたらけているとか言われている時期がありましたけれども、どんな自律的な働き方になっても賃金労働者であること自体で縛られていたりしますからね。

 

――もっと言えばどんな形態でも会社が潰れてしまえばおしまいでもあるし。いやあ、本当に大変だ、というところなんですけれども。

 

栗原 だから大杉の場合はけっこう両方とも言ってたりする時があったりするんですけれども。でもどちらかというと、大杉のストライキ論というのはアナキズムであったりして、労働者性は捨てちまえまで、ゼロになれと言ったりしています。

 

――大杉の場合はそうなんですか。労働者性を捨ててもいいべきだと。

 

栗原 大杉近辺の労働組合やってた人たちは大杉が語っているのはアナキズムだ、反労働で行こうという風になるし、大杉に近い人たちも含めてそうじゃない人たちは「いや、サンディカリズムだ。労働者の自律運動だ」と。いろいろ議論が割れたりする。

 

――のちのち、熟練の印刷工の人たちがけっこう大杉の近くに行って組合の活動を始めたりしますよね。

 

栗原 その人たちはサンディカリズムじゃなくて、アナキズムで行く、という考えですね。

 

――なるほどね。その人たちは印刷工場、ぶっ壊せ、みたいな。

 

栗原 辞めちゃってもいいんだ、みたいな。

 

 

 

酔った感覚があれば、いつでも立ち上がれる

 

――ええ。クビになってもかまわないと。私、やっぱり弱い人間のせいかどうしても思っちゃうんですけど、その「一瞬の力」が自分自身の力を取り戻せたという「生」の自信みたいなものが生まれるのはわかるんですけど。そうは言いつつ、そこからまた生活が始まる。妻子を養わなきゃいかんとかいったときに、また逆戻りするかもしれない。そこが大きなポイントかなと思って。まさにそれをやったことで、自由を本当に取り戻していろんな新しい生き方がはじまるという考え方がひとつと、「やった、潰してやったぜ」となったけれど、やはり日々は続き、子供は泣いて腹空かすとなったときに、やっぱり萎れてもう一度「働かにゃまずいな」って。なんかそんな二方向があるような気がするんですけど。どうですかね?大杉栄はそこらへんは楽観主義なんだろうか。

 

栗原 いや。大杉の場合は米騒動の後とかによくそういうこと書いたりしてたんですけど、その「ぶっ壊した感覚」というのはもちろん一瞬のことだし、そのあとというのはどうしても日常が続くんだけれども、大事なのはそこで一回酔った感覚というものを覚えていることなんだと。たぶんまた同じようなことがあるかもしれない。だけどその時にその感覚があればいつでも立ち上がれると。そういうことを言っています。いちどなにかをかまして、日常的にもおおきく変わったとおもうことがあったとしても、気づいたら、それが息苦しくなっていることだってある。たとえば仮に都市を去って農村に行って自給自足で集団で何か生活しても、その集団の倫理がまた縛りになったりすることもありますしね。またそこからが勝負というか。

 

――そうか。そうしたらまた新しい管理が始まったらそこでもう一回やるんだと。なかなか大変ですね。精神力、胆力が必要というか、気力が必要というか。

 

栗原 「それをやっていいんだよ」ということですよね。「はたらかないで、たらふく食べたい」っていっていいんですよと。その感覚を持っていないほうがキツイ気がします。ずっと従っていかないといけない。

 

――それは本当にそうですね。

 

栗原 いつでも辞めていいんだ、という。

 

――「習い性」というのかなあ?管理される習い性が永遠に生の終わり近くまで行くと辛いけど。若い時からそういう、あらがう習い性を手に入れると確かに強いかもしれない。

 

栗原 大杉栄の頃だと、やることが荒っぽいですからね。権力側もいまよりも荒っぽいわけだし。それをみんながやらなくちゃいけないと思うとちょっと大変かもしれないですけど、たぶんもう少しそうじゃないやり方もありますから。普通にただ辞める、という選択肢だってあるかもしれないですし。いまだったら、なにかやらかすときに労働法を使ったっていいわけですから。

 

 

 

伊藤野枝

 

――そうですね。いまだったら法律を逆用するというのもアリなので。で、のちに大杉のパートナーになる伊藤野枝さん。この方もエネルギッシュのかたまりですね(笑)。まさに大杉と出会うべくして出会ったのかなという感じがしますけど。『村に火をつけ、白痴になれー伊藤野枝伝』(岩波書店)は本当に面白かったです。

 

栗原 ありがとうございます。

 

――まず「大杉栄伝」が先に出て。そこでもある程度栗原さんの「うれしい」とか、評伝の人物の中に入っていく感情表現とか出てくるんですよね。

 

栗原 その当時はまだ研究論文からかけ離れてなくって。

 

――でも「大杉栄伝」でも時おり出てきますよ。そこが本当に読みやすいというか。評伝とかいうと、どうしても客観性とかいうものが必要になってきて、正直素人だと、硬くて眠くなってきてしまうんですけど。

 

栗原 よっぽど知りたい人じゃないと。

 

――コクッ、コクッてなるんですけど。時おり栗原さん自身の言葉がポーンと飛び出してくるので。大杉栄の評伝もですね。これは前段までがわからないと伝えにくいのですが。第五章の「気分の労働運動」のラストの部分。ちょっと読みますね。“逆に、労働組合であったとしても、それが労働者を束縛するものでしかないのであれば、そんなものは資本家と変わらない。ただの敵だ。気分の労働運動。ボルシェビキにはもうこりた。”

 

 このあと、“友だちがこいしい”(P.231)って、ポン!とくるんですよね。これがねえ。すごい表現として詩的だなあと。ポエジーだなあと思って。「格好いい!」と思ったんですよ。

 

栗原 実際に友だちを失っていく時がありますからね。

 

――いやあ、本当にキター!と(笑)。で、そういう表現が全開になっているのがこの伊藤野枝さんの評伝で(笑)。すごく面白いですね。これ、徹夜して2日くらいで読みました。

 

栗原 そうですか。ありがとうございます。

 

――ですからちゃんと読み込めてなかったんじゃないか、という(笑)。文章の面白さに惹かれて行っちゃったかもしれないので、ちゃんと理解していたかどうか。

 

栗原 いや、きっと背景は「大杉栄伝」を読んでくださっていれば。

 

――で、青空文庫なんかにも伊藤野枝さん自身の文章はかなりあがっていて。文章がメチャクチャキレてる人ですね。

 

栗原 キレてますね。

 

――20歳そこそこで『青鞜』の編集長になるじゃないですか。その後のおそらく辻潤と別れたことについて書いた文章なんか、ものすごく客観的な記述になってて。本当にこの人、20歳か21歳でこれだけキレキレの文章書けるなんてすごいな、ってやっぱり思いました。

 

栗原 これくらい早熟だとやっぱり28で死ぬんですね。

 

――殺されるわけですけどね。本当に大杉栄と伊藤野枝って。二人とも長生きしたらどうなってたんだろう?って。まあ関係が長く続いたかどうかも含めて(笑)。

 

栗原 伊藤野枝が違う男に走った気がします。

 

――(笑)。そうですね。本当に自由な女性、といわれる時代の人ですね。

 

栗原 大杉ももちろん文章うまいですけど、とはいえ大杉の文章は格調が高いんです。

 

――やっぱり国家とか社会とか、すごく大きな話題を。まあ男性だということもあるんでしょうけど。

 

栗原 伊藤野枝はもうちょっと日常生活から入りますね。

 

――家族とか、恋愛とか、男女関係とか。いわゆる貞操論争、堕胎論争、廃娼論争とか。本当に女性の生活、生き方に密着したような。女性の生活というとやっぱり家族とかそういう身近な話題になっていくので。そこにキレキレの文章で書かれている。

 

栗原 ですから大杉以上に現代的な気がします。

 

 

 

知られざる人、辻潤

 

――ですよね、本当に。で、そこで最初の夫だった辻潤という人(笑)。僕、Twitterやってるんですけど、辻潤botというのがあるんですよね。辻潤の言葉をbotで循環してて、何回か目に入ってくるんですけど。好きなんですよ(笑)。

 

栗原 いやあ、辻潤はすごいです。

 

――かなりリツイートしちゃうんですよね。しかも何度も(笑)。何かね。ニヒリズムなんですけど、何か沁みるといいますかね。どこか東洋的といいますか。

 

栗原 しかもそれが大杉以上にモテるという。

 

――えっ?そうなんですか。

 

栗原 伊藤野枝にふられたあとにも女性と付き合ったりとか。

 

――へえ~。それは知らなかったです。

 

栗原 で、文章もバンバン書いていますしね。

 

――でも辻潤さんは本当に知られてないですよね。

 

栗原 そうですねえ。

 

――なかなか奇行癖があるといっても。昔、辻潤の文章が載ってる『日本の自由主義』か何かの全集物を古本屋で買ったとき辻潤の紹介で、何かそれこそ「アナボル論争」じゃないですけど、社会主義者同士で論争をやってた時、みんながワイワイ熱くなって議論しているときに急に机の上か何かに乗って、「クエクエクエ」、って。

 

栗原 (奇声で)「クエッ!」って。

 

――そうなんですか。そういう感じ?ぴょんぴょん飛び跳ねてみんなびっくらこいて、熱くなった人たちが冷め切った。

 

栗原 (笑)。

 

――でもあれ、意図的にやったんじゃないか?って。

 

栗原 やったんだと思います。

 

――「バカバカしいからやめちまえ」みたいな。そういう発想がまたカッコいいなあと思ったりして。なかなかできることじゃないし。

 

栗原 死に方も格好いいですしね。

 

――ねえ?「餓死」ですもんねえ。

 

双方 (笑)。

 

――尺八吹いて、放浪して。

 

栗原 ははは。

 

――で、家に戻ったら、餓死。でも、何というか。同時にみんな末路哀れですよね。アナキストのみなさん。

 

栗原 そうですね。

 

――殺されたり…。

 

栗原 ただ、哀れなんだけど、惹きつける何かを持っていて。

 

――ありますよねぇ。

 

栗原 全員、「俺は、私は、負け犬だぞ~」って拳があがっちゃう、みたいな変な力を感じる。

 

――うん。本当にすごいな、って。だから伊藤野枝が辻潤に惹かれた、というのは非常によくわかるといいますか。僕あの、小さなNPOに政治学教えていた先生がいらっしゃっていて、その先生が引退した後にその小さなNPOに出入りしてオックスフォード英語で仏教の紹介本の読書会とかやってて、それに参加したときに聞いた話なんですが、自由には「西洋的自由」と「東洋的自由」があると。西洋的な自由というのは積極的自由。不自由な環境があれば、集団の不自由な環境の中に入って行って、声を発して変えていく。自由な環境に変えていく。それに対して東洋的自由というのは古来昔からあるんでしょうけど、「隠遁」とか、「放浪」とか「漂泊」とか。そっちのほうに行くというか。だから不自由ということを認識するという意味では同じだし、権力に対しての理解や認識は同じなんだけど、西洋は「変える」。自由な社会を「作る」に向かう人たちだけど、わりと東洋的なものはそっちの方向ではなくて、「出世間」というか、世間から出ていく。仏教とか、道教の影響もあるのかもしれないですけど。

 

栗原 あとでまた一遍なんかともきっと。

 

――ええ。その話もぜひ。で、一遍は集団ですけど、辻潤はひとりぼっちですよね。

 

栗原 そうですね。

 

――種田山頭火とか、尾崎放哉とか、ああいう漂泊の旅人みたいな。

 

栗原 彼は最初シュティルナーという人から入って、シュティルナーもニヒリズム的な「私は、私のことを、無の上にのみ置いた」みたいな考え方のアナキストなんです。そこから入っていって、でもその後に浄土真宗とか親鸞とか結構読んでたわけです。

 

――じゃあ、やはり仏教…。

 

栗原 はい。やっぱりそういうところがあるんでしょうね。

 

――だから伊藤野枝さんが、足尾事件を聞いて極まって泣いてたら、横ですごい醒めていて、せせら笑っていて、野枝さん、ムカついたという(笑)。

 

栗原 それでこそ、辻潤ですよね(笑)。

 

――はははは(笑)。

 

栗原 そうあって欲しいですからね。

 

――(笑)でも、人情ねえじゃねえかよ、という。やっぱり思いますよね?女性だし。

 

栗原 そうですよね。しかも相手が伊藤野枝ですからね。

 

――ねえ?せっかく熱くなっているのに。そこで醒めたことを言いはなって。

 

栗原 野枝さんからすると、「お前が一番何もやってないんだ」となるんでしょうね。

 

――(笑)。でも歴史の時間軸で見ると、辻潤もまさに自分の思想に忠実に生きた人だといえますね。大杉栄と伊藤野枝はまさにそういう形で、外に向かって自由を叫んで。

 

栗原 そうですね。かち割ってでも自由のほうへ。

 

――それに対して辻潤は逆方向で。

 

栗原 うん、文字通り「逃げる」方向で。

 

――ええ。逃散(ちょうさん)の方針ですよね。

 

栗原 たぶん二つ。どっちもあっていいんだと思うんです。

 

――そうですねえ。ひきこもりは辻潤の路線、いいかもしれない。餓死するまでの覚悟はないけれども(笑)。だいたいが食べていますからね。僕なんかはたらふく(苦笑)。

 

栗原 あと、辻潤も餓死する気さえなければ死ななかったはずですけどね。

 

――うん。けっこうだから「課しちゃってる」感じはありますよね。辻潤さんは。だって勤め先の学校を辞めちゃった時点でもう働くのも嫌になった。もう世渡りするより、自分が思っている好きなことを書いたりしていたいという。そんな感じだったんでしょうか。

 

栗原 そうですね。そっちはもう全開になっていきますよね。

 

――でもしばらく伊藤野枝は辻と結婚した後、辻潤の親と一緒に住んでたんですよね。

 

栗原 一緒に住んで、子どもも育ててます。

 

――ということは、辻潤は親元生活?(笑)。

 

栗原 さいしょは親と同居です。

 

――それは大変だ(笑)。親、何も言わなかったんですかね?本人に。

 

栗原 言ってたんじゃないでしょうか。ですから伊藤野枝にそれを言ったりして、伊藤野枝が「何で私に言うんだ」みたいな形で怒ったりしてるみたいな記述がありますから。

 

――辻潤は確か父親は亡くなっているのかな。お母さんだけが健在で。でも何かこう、botなんかを見るとけっこう小さい時からいろいろと人生をはかなむような傾向があるみたいですね。何か「切なさ」みたいなものをずいぶん早いうちから抱え込んでいるような感じの人。ここら辺はいつもbotみながら「ああ~、切ないなあ」と。

 

栗原 ははは。

 

――「切なくていいなあ」と(笑)。

 

栗原 いつか、辻潤論も書きたいです。

 

――ぜひ!!書いてほしいですね。

 

(後編「思い込みは何度も捨てていい」に続く)

 

2017.4.17 新宿の喫茶店にて。 

 

 

 

『青鞜』―1911年9月~16年2月まで発刊された月刊文芸雑誌。平塚らいてうが主唱し、同門の保望研子(やすもちやすこ)。幸田露伴門下の中野初子、夏目漱石門下の物集(もずめ)和子ら5名を発起人とした文学集団「青鞜社」の機関誌。与謝野晶子、長谷川時雨らが後援した。創刊号でらいてうが掲げた宣言「原始、女性は太陽であった」が有名。(ブリタニカ国際大百科事典より)。

 

辻潤―1884-1944。東京浅草生まれ。日本におけるダダイズムの中心人物のひとり。(『大杉栄伝』栗原康・人物解説より)

 

「アナボル論争」―1921年から22年にかけて日本の社会主義派内部で起こったアナルコ・サンディカリズム派(アナ派)とボルシャビズム派(ボル派)の思想的、運動論的論争と対立。(ブリタニカ国際大百科事典より)

 

シュティルナーマックス・シュティルナー。1806-1856.ドイツの哲学者。青年ヘーゲル派のひとりとされる。いかなる一般性にも還元されない交換不可能な自我のあり方を説いた。その思想は個人主義的アナキズムと呼ばれることも多い。(『大杉栄伝』栗原康・人物解説より)

 

botTwitterでプログラムによって自動的につぶやきを発信するアカウントをbotと呼ぶ。

 

 インタビュー前編編集後記

 

栗原康(くりはら・やすし)さん (政治学者、アナキズム研究)

 

1979年埼玉県生まれ。東北芸術工科大学非常勤講師。

 

著書:

 

『G8サミット体制とは何か』(以文社) 2008

 

『大杉栄伝―永遠のアナキズム』(夜行社) 2013

 

『学生に賃金を』(新評論) 2015

 

『はたらかないで、たらふく食べたい』(タバブックス) 2015

 

『現代暴力論』(角川新書) 2015

 

『村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝』(岩波書店) 2016

 

『死してなお踊れ 一遍上人伝』(河出書房新社) 2017

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