ひきこもりに「なること」と「続くこと」

 

杉本:わかりました。いやでも面白い。で、ですね。先生のほうでも今はされておられるかどうか分からないのですけれども、ひきこもりの話を質問させていただければなと思います。さまざまな先生が書かれた論文を編集した本があって、その本の中で「ひきこもりの心理」という形で先生も一編を書かれていらっしゃいますけど、その中で僕も、いや僕自身かな?完全に閉じこもっている状態というのが随分昔になり、記憶がもう大分薄れてしまっているというのがありまして。むしろ外に出れるような状態とか、居場所にいける状態になっていった人たちが今度、社会参加と言いますかね。

 

簡単に言ってしまえば就労を継続していくという所での問題というか。「継続しきれない」という所がやっぱり自分自身を考えても絶対「あるなあ」と思ってまして。そこら辺のことに先生は着目して文章を書かれてるんですけどね。どう考えたらいいのかな?というのをいま思っているんですけど。

 

 

 

加藤:ええ。難しいですね。

 

 

 

杉本:まずどうでしょう?閉じこもっているというか、ここも何と言ったらいいのか。ひきこもりって非常に幅が広いじゃないですか?まあ僕みたいにというと、偉そう気で申し訳ないですけど、まあ出て喋れたりする人とか、アルバイトしたり、自助会とか、ひきこもり仲間とかに会って話は出来るけれどもという人から、本当に部屋、家。ちょっと家族関係も悪いと家族にも会いたくないから部屋にこもっているみたいな。ものすごく幅があるじゃないですか。

 

 

 

加藤:うん。

 

 

 

杉本:で、支援する人たちも全体像をみようとすると、一人の頭脳では対応できないくらい難しくなってくると思うんですよね。だから僕なんかは正直分からない。見たことが無い人、いくら自分自身の中で過去を思い出しても、申し訳ないけれどその心情に至れない自分がいる気がします。むしろ自分自身のいまの問題意識として、就労なり何なりにせよ、「継続性」ができる。そこに躓きがない状態に持っていけるということがけっこう難しいことなんだよなぁというのがありましてね。そこは居場所に来ている人たちにもあるような気がするんです。だからそのあたりに注目してくれたのはすごくいいなと思いましたので。ここら辺の話を軸にしたほうがいいかな、って。僕自身の真面目な問題意識としても正しいのではないかな、と思いました。

 

 

 

加藤:うんうん。何か難しいんですよね。すごくいまのお話聞いてて、本当に人それぞれなので。あの、このお話をいただいた時も、僕はその、フリースクールで働いておりましたので。

 

 

 

杉本:この本(『迷走する若者のアイデンティティ』白井利明(編著)ゆまに書房 2005)の論文なのですが、フリースクールで働いていた頃に書かれたものなのですか?

 

 

 

加藤:原稿として書いたのはそこで働いていた最後の頃だと思います。その頃にちょうど斉藤環さんとか出てきて、にわかに「ひきこもり」のことなど今まで誰も振り向きもしなかったのに、ある研究会で研究発表しなさい、みたいな感じで呼ばれて行って。で、その時にすごく悩んだのは、それは個人差が大きすぎるわけで、何を共通のものとして語れるのだろう?最大限、もし共通するものがあるとするならば、ひきこもりに「なる」ということと、それを「続ける」ということ。それがちょっと違うメカニズムで動いているんだということ。最初はそれぐらいしか共通なものとして語れるものは無いんじゃないかと思ったところがひとつのスタート地点だったんです。

 

 

 

杉本:なるほど。

 

 

 

加藤:それからもうひとつは、ちょっと話が前後して申し訳ない。昨日村澤(和多里)先生の博士論文の審査会みたいなのがあってですね。

 

 

 

杉本:昨日だったのですか?はい。

 

 

 

加藤:そのなかで急に、腑に落ちたことがありました。ひきこもりのかたたちの支援をしていたころは、私がまだ大学院生とか、学生上がりのレベルだったので、仕事は何かというと、家から出てこられないかたの家庭訪問に行って、まあアウトリーチですね。で、会えなければお手紙を残してくるとか、お会いできたら少しお話したりとか、そういう感じだったんです。そして、その過程でフリースクールに繋いでいく。で、繋いだらフリースクールではまた別のかたが対応するみたいな感じでした。その時にですね。例えば何度か家庭訪問させてもらってまあ一回くらいフリースクールに行ってみるか、みたいな形で来てくれる人がいるんですけど。そのあと例えば自分から見たら先輩にあたるセラピストの人とかが、言葉が悪いんですけど、何か上手く行かないんですよ。

 

 

 

杉本:うんうん。

 

 

 

加藤:その時期、この本を書いた頃に思ったのは、ひとつは就労とか、進学とかを目標としてて、そこまでの話ししかストーリーとして支援者は持ってない。例えば中学校のときにひきこもっていて、高校に進学してまたフリースクールに戻ってきちゃう子みたいなことはよくあるわけですね。そうすると、「上手く行かなかった」みたいな話になっちゃって。また何か新しい問題が高校で起きたから、またひきこもりになったんだ、という語りになるわけです。しかし、そうではなくて、やっぱりきちんと日常がまわっていくプロセスが動き始めていなかったんじゃないかと。学校に通い続けるための状況が上手く整っていなかったのではないかと。あるいは職場で働き続ける条件が整っていなかったんじゃないかというのがその当時思ったことです。

 

 ただ、村澤さんの論文を読ませてもらったときにすごく腑に落ちたのは、村澤さん自身はさらっと書いてたんですけど、ひきこもってしまった人たちが例えば自助グループなどで語るときにひとつ厄介なのは、自己観察に視線がすごく向いちゃうんですよね。例えば「自分には欠けているところがある」。だからちょっと妄想めいたことですけども、人からよく見られてないんじゃないか。で、よく見られないのは何故かというと、「自分には欠けているところがあるからだ」という。これも永遠の無限ループに入っていきますよね。

 

 

 

当事者、支援者の自己観察を巡る無限ループ

 

杉本:自分自身に貼ってしまう※スティグマですね。

 

 

 

加藤:はい。それで何をやっているかというと、自分のことをずっと観察している。そこで自助グループが一回躓くんですけど、そこから展開して行くときって何が起きているかというと、その対象者のかたの語りでは、「(自助グループに)来てる人、みんないろいろですね」とか、「ほかの人もいろいろ、変な人もいっぱいいますね」という感じで観察が他者へ向いている。で、結果、「自分も変なんですけどね」みたいな語りになっていくわけですよね。つまり単純に言うと、何かが展開するときには、自分に向きすぎていた視線が一度外側に向く。つまり、他者を観察するということが起きるのではないか。自己観察ではなくて、他者観察するということが、ひとつの転換点としては重要だと思うんです。

 

 で、これがひとつ。で、もうひとつ村澤さんの研究が優れてるなと思ったのは、実は同じことをセラピストとか支援者もやっているというのです。それはどういうことかというと、例えば自助グループをやったときに最初に自己開示をさせようとするわけです。例えば自助グループの人たちが上手く行かなかったときというのは、自分が自立に向けてどれだけ頑張っているかとか、自分はいま自立に向けてどれくらいの所にいるかという、競争みたいなことが起きてしまい、みんなが疲れちゃって解体するみたいな話なんですけど。

 

結局その時に支援者が何をやっているかというと、「まだ自己開示が足りなかったんじゃないか」とか、あるいは自分に対する気づき。それをどうやって促していこうか、みたいなことを考えている。結局何をやってるかというと、ひきこもりの状態でうまく立ち直れないというか、まだこじれている状態というのは、当人も自分の方ばかり観察している。それが上手く行かないときにセラピストや支援者は何をやってるかというと、さらに当人が自分を観察するように仕向ける仕組みを作っている。いわばこじれるところには、ひきこもり当事者とセラピストの共犯関係みたいなことがあって、実はセラピストのほうもこじれているわけです。

 

 

 

杉本:ふふふふふ(笑)。

 

 

 

加藤:お互いにこじれているわけで、お互いに「自立」とか、自己意識に囚われちゃってるんだな、と。この論文を読んだときに初めて、自分のことに置き換えて、先輩セラピスト、例えば「発達障害の子どもにかかわることはすごく上手な先輩」とかがですね。ひきこもりの人とのかかわりになると途端にあせっちゃったり、何か上手くいかない。適切な距離を保てなかったり・・・・。それでその先輩たちには、そのことに関して何と言っていたかといえば、「ひきこもり問題って難しいよね」って。結局相手のせいにするわけです。でも実は自分たちもその「同じ罠」じゃないですけれども、それに縛られていくようなプロセスだったんだな、というのが、村澤さんの論文からすごくわかりました。

 

 ひきこもり支援において、外側に向けなければいけない視線を内側に向けさせ、何らかの答えを個人の内側に求めさせるようなやり方が多いのではないかと思います。たとえば「あなたは何がやりたいんだ?」とか「今後どうして行きたいんだ?」「本当に自分がやりたいことは何だ?」という風に。実際、似たようなことをその当時の先輩セラピストの方は言っていました。今はやらないかもしれませんけど。

 

 

 

杉本:ええ。それはさすがにね。あの、横浜のほうでおおむねほぼ毎月のようにひきこもりに関する本を読む読書会というのを10年来やってるところがあるんですよ。で、村澤さんに監修してもらった僕らの本とかも取り上げてくれたものですから、その後もスカイプなんかで参加させてもらったりしてるんですけども。やっぱり「支援する人・される人」関係みたいな固定化したものの枠組み。どうもその関係の中で行くと、当事者も自己観察に終始しちゃう。これはもう絶対あるんですよね。で、そこから抜けられない「悩みを悩む」ループに入ってしまう。ダメな自分を自分ひとりじゃ解決できないというのがまずあるけれども、やっぱり支援者の人もね。支援する対象者たちに動きが無いときに、彼らがよく考えるのは社会適応。「適応させる」という。このひとつの問題解決の方法に囚われているんじゃないかということを良く話しているんですよ。社会参加させること、あるいは既存の枠組みに入っていくということ。

 

最悪の場合「戸塚ヨットスクール」みたいなことになっちゃあ、まずいわけだけど(笑)。そんなものではない、暴力的な侵入じゃないけど、やわらかく接していても、やっぱり見抜かれるというか(笑)。ある程度批評能力が高いひきこもりの当事者の人たちほど見抜いちゃうというか。やっぱり社会に適応させることを考えてるんじゃないですか?ということですよね。そういう、ちょっと支援者不信のようなものを持っている人も現実には居るということがあるんですけれども。それは無視できない現状で。むしろ「社会を問う」姿勢が無いんじゃないか?みたいな話題になるわけですよね。

 

もちろんそれに対してはそうじゃない、という人も居ます。そうはいうけれども、じゃあどうします?と。まあ経済的な問題とか、親が亡くなった後どうします?。これ、究極のね(笑)。僕はある意味脅迫だと思うんですけど。そういう所にどうしても答えがぐるぐる回り、支援者の人も同じ答えをぐるぐる回るだろうと。だから僕が思うのは、川田先生の話を聞いたり、ほかの先生の話を聞いたりしながら、やっぱりその関係の中だけでやりとりしててもどうも突破口が見つからないなあということなんです。僕の中では、他の人や、他の領域でいろんな研究している人とか、面白いことをやっている人から話を聞いたりしたほうが何かヒントがあるんじゃないかな、という風に少し思い始めているんですよね。

 

 

 

加藤:ああ。川田さんは何と仰ってました?全然違う視点から?

 

 

 

関係性の問題

 

杉本:ああ~。川田先生の話も僕はすごい高度な話をしてくれましてですね(笑)。何とも説明が難しいんですが、ひとつ簡単に言っちゃうと社会状況性とか、歴史性とか、関係性なのかなーって。僕、やっぱり「関係性」という言葉が何かいろんな意味で、すごくぼんやりした言い方で申し訳ないんですけど、何年か前からずっと関係性の問題ってありそうだなあ、みたいなことは思っているんです。支援者と被支援者の関係性とか、親子の関係性とか。当事者同士の関係性とか。この「関係性」の中に何かヒントがあるんじゃないかな、という風に思っているんですよね。その「関係性の膠着」みたいなものがあるから、どうも上手く回ってないんじゃないかな、っていう風に思うんです。あと、社会と個人の関係性もありますよね。社会がひきこもりを見る視線。ひきこもりの当事者が社会が自分をこう見るだろうという視線。そんな感じで。だからそれらがフラットにならない以上は難しいなと。

 

 でもフラットにも出来ないな(笑)という所もあるじゃないですか?やっぱり悩みは悩み、苦しみは苦しみなので。メディアの人なんかとも接触することがあるんですけど、メディアの人たちはこれを世間に伝えるとなると、やっぱり「大変だ」という切り口になる。僕は一貫して「大変だ」というパターンに関してはひねくれ者だからそのパターンの切り取りかたみたいなものを見てきて、何でこんな風に?これって生産的じゃないなとやっぱり思ってきました。でも普通の人たちは元々ひきこもりに関心が無いから、それも致し方ないのかなあと思ったり。そういういろいろ答えの出ない、自分の考えはぐるぐる巡らしますけどね。

 

 

 

加藤:そうですねえ。僕も何か社会適応するのかしないのかというのは支援者によってすごく分かれるところだと思うんですけど。でもたぶんしないと言っている人も、ではどうするんだ?と言ったときに案が出てこないので、だいたいそういう話なんだろうと思うんですね。僕は静岡にいたので、静岡でもひきこもり支援のNPOみたいなところに関わっていたんですけど、そこもやっぱりひとつの理念として、やっぱり「働かせる」みたいなことはおかしいでしょう、と。そういうものに違和感覚えた人たちが集まった所でやっていたことがあるんですけど、じゃあどうするのかと言ったときに、「食っていけるかどうか」というのはちょっと難しい問題だと思うんですけど、でも例えば何か困ったときにそれこそ関係性。頼れる関係性。

 

 それはどういう関係性かといえばたぶん適応を軸にした関係性だと「損得」がつくので、それってもろいと思うんですよね、仕事上の関係などは。むしろたぶん趣味とか、『ひきこもる心のケア』で村澤さんが書いてたと思うんですけど、共にふられた人たちとか。そういう何ていうか、利害関係じゃないところで。適応になってくるとさっきの自立の話じゃないですけど、自分のほうがより適応しているみたいな。競争的な関係に入ってしまいますよね?そうではなくて、趣味も競争的関係に入る場合もあるかもしれないけれども、もっと違う視点、何か仕事とかで染み付いている人間関係じゃない関係がきっと重要で、案外最後に自分を救ってくれるのはそういうところ。だから退職した後に行き場所がなくなってしまう人たちもけっこういると思うんですけど(苦笑)、少しそれってひきこもってしまうみたいなことと実は近い話なんじゃないかと僕は思っています。「社会適応」みたいなところの軸でしか関係を築けていないと途端に利害関係みたいなものとしか接点がない。社会適応というのは結局は社会の役に立つ人間たちだけが築ける関係だから、どうせ僕らは衰えていけば役に立たなくなるときが来るわけですよね。その時に生き残る「関係性」ってたぶんそっちじゃ無いと思うんですよね。

 

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