普段のふるまいから、資本に抗う「部分での」闘い

 

北川 そうですね。「労働の拒否」ということですごく面白いなって思って聞いたのはたぶん今のお話です。日本でも喫茶店でちょっと休憩したりとか、何か少しでも休み時間を長くしようとかありますよね。そう考えたら本質的なところでは、さっきの小説の「ヤカラ」だって全く遠いところにいるわけじゃないんですよ。10分で帰って来いと言われても数分延ばしたりとか、そういうミクロな話はいまでもいくらでもあると思うんです。言ったらふざけた話なんです。ふざけた心じゃないですか。「さーぼろ!」とか、一時間だけでも休もうとか、今日はちょっとおなか痛いんで休みますとか。まあズルだったりするわけなんですけど。何かちょっとふわっとして面白い。そしてこのふざけたような実践をインテリたちがクソ真面目な理論で語るという(苦笑)これが経営者や支配者、生産性にとてつもないダメージを与えるのだ、革命だ!ってね。

 

杉本 (笑)なるほどね。

 

北川 その辺がひとつやっぱり面白いし、政治家のワイロや不正がどうとか、そういう話ではなしに、人々の日常の欲求とか、ふるまいとか、本当に人々の普段の仕事、生活の中から資本主義にあらがう何かを見つけ、一緒にそれを爆発させていこうと。その姿勢は何か腕を大きく振り回して威勢よくみんなでやるぞーとか、そういう話とは違う部分に本来出発点があって。それはのちのアウトノミアの諸派とか、そういう運動や理論とのかかわりあいでまたいろいろと出てきます。

 

杉本 やはりそこに対立の種としては、日本の共産党もこういう理屈だと思うんですね。つまり搾取されない労働者になるのだと。資本家がいて、労働者になって、10働いたら10もらえるんじゃなくて、34割くらいは取られる。本当の10のうち、自分の取り分は56割になるんじゃなく、労働者の社会になれば必要な分だけ受け取るという基本的な、中央集権的な「生産力主義」というんですか?生産はするんだと。一生懸命、労働者が主役の国になっても。「生産はだいじだ」という(笑)。だからロケット競争でもアメリカに負けるな、追いつけ追い越せ、みたいなね。結局生産が大事だという思想は変わらず。国家間競争みたいなことも勝つんだ、という発想は日本なんかも実は共産党もそうだったんじゃないですか?結局、汗水たらして働くのは正しいという意味では、資本主義も社会主義も共産主義も変わらないというなかで、やっぱり極めて人間のホンネに近いのはこのオペライズモの考え方ですよね。

 

北川 そうですね。

 

杉本 共産主義の、マルクス主義の王道路線から見ると、ふざけとる。

 

北川 そう。ふざけてます。

 

杉本 ルンプロ(ルンペン・プロレタリアート)だと(笑)

 

北川 (笑)そうですね。それで何が悪い?と。まあ「わがまま」ですよね。

 

杉本 ははは(笑)

 

北川 メチャクチャ、わがままです。それ、たぶん正しいんですよ。そういうメッチャわがままで、よい意味でいかれた奴らなんですよ。これは半分冗談で、半分本気で。冗談でもあり本気でもあるんですよ。じゃないとこんなん、あり得ないじゃないですか?

 

杉本 ねえ?

 

北川 だって、オペライスタは、「全体を考えるな」と言うんですよ。社会全体とか。

 

杉本 考えるなと?

 

北川 そういうこと言うと、「国の経済はどうなる?」とか、ぜったい資本の側、支配的な階級社会の側に包摂されちゃうから。「部分」と言うんですよ。

 

杉本 なるほど、部分。

 

北川 「労働者の思想とは、部分の思想だ」と。マリオ・トロンティという往年の代表的オペライスタは言うんです。ぼくはこれ、今風に解釈するとたとえばこんだけ金よこせとか、金くれと言ったら、「財政的な問題を君、どう考えているんだ?」「国は借金があるんだ」「会社の経営のことも考えろ」と言われる。ひどい場合には、全体からみた対案を出せ、とか言われる。彼らはそういうのは考えない。そんなことは知ったこっちゃない。そういうエセインテリ的態度はいらない。そういうことを考え出すと相手の土俵で、国家とか社会とかを前提にしてたぶん話が進む。だから議会に集約されるリベラル民主主義とも相容れません。そこを切り離すためには社会を離脱し、社会を二分し、「敵と味方」に割って、こっちは部分にいく。

 

杉本 部分で闘うと。

 

北川 部分で闘う。全体のことは考えない。

 

杉本 まあ、考えた時点で相手の土俵に奪われちゃってるわけだ。

 

北川 だからムチャクチャわがままで、一方的でいいんですよ。オペライスタは、思想とは「のため」ではなく、「に敵対して」生まれると言うわけですから。

 

杉本 でも部分が勝っちゃったあとどうするか。ああ、それも全体を考える発想かぁ……。

 

北川 ははは(笑)。でもその疑問はね、いろんな人から言われる。だから僕もオペライズモの本を読んでいて、どんな形であれ、拒否、離脱を含めてのことですが「闘争の大事さ」というのをやっぱりすごく感じる。それ抜きで未来社会を描いても何の意味もない。絶対的に労働者の発想で、労働者が資本主義から離脱する。自分が労働者であることを破棄していく。だからトロンティは、資本主義に包摂された自分自身を破棄しなければいけないということを言ったんですね。厳格に受け取りすぎると、モラリスティックで硬くなってしまいそうですが。いずれにせよ、オペライスタは「闘うことで初めて階級が出来る」というんです。労働者階級というのは資本主義の中で資本に搾取されることを言うのではない。その搾取から離脱したり拒否したりすることで、はじめて「階級主体」というのが生まれてくるんです。だからオペライズモは「客観主義」ではない。人間のいろんな欲望とか、変化する主体の表現の中で物事を考えていく人たちなんです。抽象的で均質的な階級のイメージを打破するために、これを「階級構成」という言葉で彼らは概念化してました。まあ硬い言葉ですけどね(笑)。でも柔らかいことを言いたい言葉なんです。ちなみに、この主体性の水準からの介入という点で、オペライズモにとってレーニンの再読も重要でした。

 

 そうですね、あとは、「いかに資本から取るか」ですね。さっきの10やったら345なんかじゃ当然満足しない。ジジ・ロッジェーロという現在の文脈の中でオペライズモの思想を再生させようと頑張ってきた人がいるんです。オペライズモやアウトノミアの遺産って、70年代末に活動家が大勢逮捕されたり、亡命したりとかがあって、イタリアでも思想的な断絶があるんですよね。80年代末ぐらいから徐々にこの思想は復活してきますが、ジジは1973年生まれですけど、90年代、2000年代とそれをさらに掘り起こして現代化していく作業を頑張ってやってきた人なんです。廣瀬純さんがジジに行ったインタビューがあります。そこで彼が話しているんですけど、メッチャ面白いですよ。労働者は資本が10やると言ったら、「いや、100寄こせ」。

 

杉本 (笑)

 

北川 100寄こすと言ったら、1,000寄こせというのが労働者やと。

 

杉本 まるで正反対になりますね。「働く場所は提供してやるから働いてくんない?」と言ったら、逆に働く側のほうが逆どり。逆に多くとったら、資本家のほうが失業しました、とかね(笑)

 

北川 そうなんです。そういう本当にある種「部分」で、全体がどうとかという、そういう発想ではない。

 

杉本 なるほど。

 

北川 やっぱり自律性、イタリア語でアウトノミアというわけですが、それで自分たちの生活を自分たちで作っていく。労働が最小の暮らし、労働なき暮らしを作っていくということですが、それだけだったらやっぱり自分たちだけで頑張りすぎて疲れちゃうとか、生活が成り立たないとかになるでしょう。だから拒否して先細らないように、もうひとつの敵対軸として「資本からぶんどる」、「世の中からぶんどる」っていうのがあります。「最小の労働で最大の賃金」もそうですし、生産性から切り離された「保証賃金」、まあベーシックインカムみたいなものですが、それもそうです。「ぶんどる」は、こうした制度レベルの要求もそうですが、もっと手前のミクロな実践のことでもあります。特にはこっちかな。「領有」と呼ばれる行為、ふるまいがあったんです。図式的ですけど、この「領有」がのちの70年に入る頃からのアウトノミアでより積極的になされていくことです。家の占拠とか。スーパーとかで商品の値下げ交渉、さらには勝手な値下げ、あるいは強奪とか。要はタダで、ということですね。「プロレタリア流ショッピング」とか言われます。価格はそれっぽくみえる経済法則じゃなくて、政治的力関係で決まるんやと。領有は、賃金の面だけじゃなく、直接のお金だけじゃなく、という話になります。すべては自分たちの労働を通して作り出された富なんやから、日常のすべて、生活のすべての局面で領有です。パンとかじゃなく、キャビアのような贅沢品も含めてなんですよ。あと、労働に使われる自分たちのエネルギーや力、硬く言えば労働する力能も含めて「領有」です。それは「ぜんぶとってしまおうPrendiamo tutto」という当時のスローガンに代表されると言えるかもしれません。

 

 

闘争の物質性

 

杉本 世の中からぶんどるということなんですね。恵まれてないから、そこに空き家があるから入り込むというだけのものじゃないんだ。もうちょっと考えているわけですか?「敵対するんだ」という。

 

北川 そういう意識があるかはわかりませんよ。

 

杉本 ははは(笑)

 

北川 オペライスタは「意識は重要じゃない」というんですよ。

 

杉本 そうか。じゃあスクウォットは意識だろうが無意識だろうか、どちらでも構わないと。やっちゃうのは何の問題もありません、と。

 

北川 基本的にはそうです。ただそうはいっても当時のオペライスタももう少し大きなことを目指したかったとは思うので、工場を占拠して満足とか、そういう話ではなかったと思います。それは今でもですが。ネグリは、空き家をスクウォットしたとかそんなことで満足するなと最近も言ってましたね。それはすごいことやろ、と思いますけど。

 

 だから組織や制度の問いが浮上するわけですし、当時のオペライスタのなかでも、将来目指すところをめぐって意見の違いもありました。ただ彼らの出発点にあるのは、「調査」なんです。労働者と一緒に工場の門のところで話をして工場の労働のことや分業のあり方、工場の仕組みを聞いたり、彼らの出身地や経歴、日常生活の話を聞いたりとか。まさにさっきの小説のところで言った話です。他にも「工場の動きがどうなっているのか」「工場って、こういう風に動いているんだよ」「ここを止めたら工場全体止まるよ」とか、いろんな知識を共有したり、新たに生み出したりしながら。これは労働者がさらに政治的に行動するような、爆発するような形で共同作業を行う調査なんです。「コンリチェルカ(conricerca)」。そういう用語で言われています。さっき名前を挙げたジジ・ロッジェーロの師匠でもあるロマーノ・アルクアーティというオペライスタが特に強調してきたことです。これには研究する側が、どこかの労働者集団の中にコンフリクト(葛藤)のタネを見出すことが必要なんです。まだ爆発していない潜在的なものをいわばあらかじめ先取りして、それを労働者と一緒に研究する中で、闘争を集団として組織、爆発させるイメージでしょうか。出発点からやっぱり「意識」ではないんですよね。それを言うと彼らの言葉で言うなら、「闘争の物質性」みたいなものに触れられない。

 

杉本 闘争の物質性とは、どういうことですか?

 

北川 例えばものすごいベタな例を言うと、さっきも労働者のロン毛の話がありました。日本でも学校であるじゃないですか。中学に行ったら。「何だ、その髪型は?」みたいな。

 

杉本 ああ、校則で。

 

北川 そういうことに対する「何で?」というのが彼らの、つまり「ロン毛でいいだろ」というのが彼らの「闘争の物質性」なんですよ。

 

杉本 そうか。

 

北川 それは大きな革命性とかじゃないんですけど、彼らの日常の要求で、現実の力関係の中から、欲求から、世の中の仕組みとぶつかり合う。

 

杉本 部分的なところから、秩序には従う必要はないと。

 

北川 そういうことです。みんなが正しい意識を持ったとしても、それがふるまいとして表現されなければダメじゃないですか。資本主義はおかしい。たぶん世の中の多くの人が頭でそう思っていても世の中はなにも変動しないでしょう?人種差別とかも同様じゃないですかね。

 

杉本 そうですね。日常の秩序を守っていることはけっきょく、ぼくは今ではそう思ってますけど、資本主義の社会も相当おかしいよなと思っている所、資本主義ゲームの構造が日常にまで作用していると考えたら、その日常の自由なふるまいがね。まあ資本主義は基本的に自由ということを建前で言うじゃないですか?

 

 であれば、「別にいいじゃないですか?」と言えるはず。まあぼくはやりませんけど(笑)。ちょっとそういう自由すぎる人には距離置くかもしれませんが。理屈としては何か問題がありますか?という所からはじまることではありますよね。まさにごく微小な、ミクロな部分のぶつかり合いだけど。「その秩序の理屈はどこから来てるの?」。まずたいがい答えられないですよねえ。

 

北川 そうですよねえ。

 

杉本 秩序は秩序だ。みんながしているのに君だけがそれだと統制がとれないじゃないかという(笑)。まあ集団主義の。

 

北川 上からね。そしてそれが下からも。本当にね。

 

杉本 まあ社会主義国でもおなじことをやりそうですけどね。

 

北川 まあそうです。権威主義なんです。

 

杉本 うん。権威主義。

 

北川 何か言うことを聞かせたいんでしょうかね。

 

杉本 ええ。それはぼくのなかにもありますからね。

 

北川 いやいや。この世の中に生きていたらまずはその価値観。みんなが触れるし、内面化、主体化していく。まさに労働者として資本に、まあ支配者や経営者、上司にしたがったり、部下に命令したりするための勉強、実践です。

 

杉本 そうですね。親から始まる中で。

 

北川 そうですね。まさに。

 

杉本 難しいところですよね。個人としてどう考えるかということになるかと思うんですけど。

 

 

 

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*マリオ・トロンティ (1931-)マリオ・トロンティのマルクス読解は、〈社会的工場論〉と呼ばれる理論に結実した。社会の基幹的生産力である大工業の影響力が社会総体に及び、社会総体を包摂する事態を「工場と社会との関係が有機的になった」とし、トロンティはこれを社会的工場の成立と呼んだ。この認識からすれば、トロンティの構想した〈階級闘争〉は、狭く工場に限定されるものではなく、社会のあらゆる領域(学園、家庭、街頭など)が〈階級闘争の舞台〉となる。60年代前半に唱えられたこの理論は、その数年後、青年・学生たちの急進的な反乱によって実現されることになる。(中央大学社会科学研究所より)

 

ジジ・ロッジェーロ (Gigi Roggero 1973-) ボローニャ在住の研究者。住宅や学内空間の占拠などを行ってきたことで知られるボローニャ大学学生を中心としたグループHoboのメンバー。政治と理論についてのインタネットサイトCommonwareを運営。(航思社、ジジ・ロッジェーロインタビューより)。

 

廣瀬純 1971年、東京生れ。早稲田大学大学院文学研究科修士課程(芸術学)修了。パリ第三大学映画視聴覚研究科DEA課程修了。現在、龍谷大学経営学部教授。専門は映画論、現代思想、フランス語・フランス文学。映画批評誌「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」(勁草書房)元編集委員。仏・映画研究誌「VERTIGO」編集委員。著書に、『美味しい料理の哲学』(河出書房新社、2005)。訳書に、パオロ・ヴィルノ『マルチチュードの文法』(月曜社、2004)など多数。(Amazonサイトなどより)

 

ロマーノ・アルクアーティ アルクアーティは、オペライズモに関わり、『クアデルニ・ロッシ』誌上に、トリノとその周辺のフィアット社やオリヴェッティ社などの労働者たちについての素晴らしい文章を残した。〈コンリチェルカ〉、つまり〈共同研究〉とは、主に彼が中心となって作成した労働者調査、あるいは知を生産する、さらには集団的主体性を生産する政治的・敵対的メソッドを指す。それは、調査者と被調査者とのあいだの緊密な相互関係に基づいたメソッドであり、「行動を生じさせる、行動を確立する」というはっきりとした目的を有する。「知はただ行動へと道を譲るのみならず、それを引き起こさなければならない」、と。(“社会的協働のコミューンーアントニオ・ネグリへの〈大都市〉についてのインタビュー”アントニオ・ネグリ、フェデリーコ・トマゼッロより)