ポテーレ・オペライオ(労働者権力)

 

杉本 それでビフォさんの話で思うんですけどね。とはいえ結局この人も離れますよね。例えばオペライズモの活動から。何という政党でしたっけ?政党ではなかったかな。

 

北川 ビフォはちょっと後の世代なので。1949年生まれ。ネグリは1933年生まれですし、オペライズモの「全盛期」からすると、ビフォはひと世代下なんです。60年代はオペライズモの『クァデルニ・ロッシ』(『赤の手帖』)という雑誌があって。そこはもう本当に調査とか、議論とか、情勢報告とか、結構小難しい話がいっぱい載ってるんですけど、その雑誌が分裂するんですよね。1963年ぐらいです。その理由はいろいろあるんですけど、ひとつの理由は先ほどの「ヤカラ」みたいなやつらをどう捉えるか?らしいです。

 

杉本 ああ…。

 

北川 調査のやり方でもいろいろ違いはあったんですけど、まあそのヤカラみたいな奴らこそ大事だ、革命性を持っていると。彼らは党や組合のいうことを聞かずに勝手にやっている、つまり自律的にやっている。この自律性が大事やん、と言う人たち。で、そうじゃないと考えるもうちょっと社会党などの党寄りで労働者への影響力、統制力を改めて確立したい人たち。両者の間で分裂があって。ネグリやトロンティは「ヤカラが大事や」、労働者の自律性万歳といって、『クラッセ・オペライア(労働者階級)』という集団を作るんです。そのあとに「ポテーレ・オペライオ」でしたかね。1967年あたり。確か全国組織です。この本(『ノー・フューチャー』)にも出てくると思うんですけど。

 

杉本 ああ、それですね。

 

北川 日本語で「労働者権力」ですね。このグループでは、ネグリがけっこう理論的中心にいて、たぶんビフォは10代のときに影響を受けた。ビフォは最初は共産党青年部みたいなところにいたようですけど、そこを追放されてから「ポテーレ・オペライオ」の理論を最初は受け取っていたようなことを書いていますね。でもそこも結局、ビフォからしたら、レーニン主義の政党のようなんです。

 

杉本 そこなんですよね。今までのオペライズモの話を聞いていたら、おそらくレーニン主義のボルシェビキ、そちらのほうに行くのは真逆で妙な感じもするんですけど。ヤカラが大事だとしたらなぜレーニン主義的なところに行ってしまうのかという気がするんですが。

 

北川 そうですね。ぼくも正直、それがアウトノミアで一番「なんでやねん?」というところです。オペライズモも労働者のいい加減なところが重要だ、サボっているあいつらは素晴らしいとまあ言っていたわけですが、やっぱり組織はすごく言葉としても実践としても重視します。この言葉もいろんな意味で使われるとはいえ、ある種の党派づくりです。「オルガニッザツィオーネ(organizzazione)」。ようは、既存の労組には従わない別の労働者の自律的組織をつくろうということですね。「ポテーレ・オペライオ」は1973年に解散しますが、それはトリノのミラフィオーリの巨大工場を自力で、自律的に停止させた労働者のとんでもない闘いを受けてのことでした。とはいえ解散した後にできたネグリのいた集団の名前は、アウトノミア・オペライア・オルガニッザータ、「組織された労働者自律性」でした。当然、組織が労働者を上から先導するとかではないし、その組織のあり方をめぐってはいろいろ議論はあるんですけど。ただひと言でいえば、やはり労働者の自律的な組織を作るのは大事だということです。でもそれで何を目指すかという、戦略のイメージに違いはあるでしょう。例えばマリオ・トロンティという人は最終的にはまた共産党に戻るんですよね。彼は国家権力をとることは大事だと。それをとれなかったことが敗北だったと。

 

杉本 ああ、今でもそう言ってるんですか?

 

北川 今でもそうです。で、ほかのネグリたちの「ポテーレ・オペライオ」。ビフォからすれば、結局はレーニン主義的な感じを持つ。もちろん彼らが言っている組織は、既存の共産党とかそういう党ではなくて、もっと人々の運動の内部、労働者大衆の内部にある党だと言う。特に70年代になるとはっきりとそうです。世の中の大局を見据える党や組織が外部から指導したり、引っ張るんじゃなくて、勝手に広がる労働者の闘争を補強するため、広めていくために組織があって、組織が扇動、代表するわけではない。労働者は自律的、集団的に闘争を拡大させ、増殖させているし、何より彼らはそのような知性をも有しているというわけです。なので組織は、あくまでも拡大する運動のさらなる拡大を邪魔するものを取り除くものだと。

 

杉本 先頭には立たない。

 

北川 でも労働者の自然発生性だけでも足りないと。それだけでは闘争は継続的に進まない。いちおうこうした主張は、当時の労働者階級の欲望や主体性、さらには社会の状況をふまえてのことではあります。こうした組織のあり方が普遍的にどこでも当てはまるとかではなく、オペライスタというかアウトノミアの人たちは、当時のイタリアの状況にそくしてこういうことを言おうとしています。レーニンの前衛党主義も、当時の皇帝が支配するロシアの文脈、ロシアの階級構成と資本の水準にそくしての戦略だったというわけです。組織化も組織形態も、文脈を無視して議論したらダメだと。垂直的な組織にせよ水平的な組織にせよ。そんな組織論をたぶん言おうとしていたみたいなんですね。

 

杉本 組織化は必要だと?

 

北川 そうですね、どんな組織か、誰が組織するのか、どんなレベルかによるんでしょうけど。例えばアルクアーティがかつて言った「不可視組織」みたいな話。職場、工場で経営者や監督者、あと既存の労組とかにはみえないところで、労働者たちが勝手に協力してつながりあって、山猫ストが突然起こる。「組織された自然発生性」。それを組織という言うならわかりやすい。学校の授業中に生徒同士が先生のみえないところでふざけあっているみたいな感じですかね。こうしたストは、何の要求も経営側へ出さなかったりするわけです。ただ生産を止めて、資本に害悪を与えるだけ。こんな突然起こる山猫ストを外部から組織することはできないとはっきり言っていますし。まあ革命とは、工場だけの問題ではなく、そこを拠点にして国家の権力、国際的な権力へと向かうのだ、みたいな話になれば、どうしても確固たる指導部がある党的な組織がイメージされてしまうことだったのかもしれません。例えば最近もネグリは、既存の政治・金融権力に影響を与えるルールを課すというか、むしろこっちのほうへ力を持った、「対抗権力」というか、レーニン的な二重権力の状態をつくりだすように主張してます。オペライズモ的に言えば、階級闘争こそが歴史や社会のモーターであり、資本よりも先立つものなのだから、それが資本、権力に変容を強いるというイメージかもしれません。

 

 ただ思うに、いずれにせよ組織化を語るための言説とかがビフォなんかからするとすごく旧来的にみえたのは確かです。

 

杉本 上の世代でしょうしね。

 

北川 「労働者権力」という、それは理論というよりも労働者自身の中からも出てきた切実な要求だったと思いますが、言葉のセンスからはじまっていることかもしれませんね。ビフォは、「ポテーレ・オペライオ」とか「ロッタ・コンティーヌア」とか新左翼系のいろんな組織の中では、周辺にウロウロしていた人でもあるし。

 

 

 

新しいミクロな文化や価値を体現したアウトノミア

 

杉本 やはり文化的な状況が時代によって違ってきたというものがないでしょうか?例えば日本でもそうですよね。60年世代と60年代末の団塊の世代では違う。例えばビートルズが出てきたり、新しい、今まで知らなかったカルチャーの若者たちの存在みたいなね。先鋭的ながら大衆的な存在みたいな人たちが出てきた。そういう存在と感性が近いものがあったのかな。でないと(ビフォが)セックス・ピストルズを本の冒頭に出したりはしないですよね。

 

北川 それはきっとそうですね。ただオペライズモとアウトノミアの関係ってひと言では切り取れないくらい、いろいろな分岐とか断絶がいっぱいあるので、ビフォの関係も含めて難しいんですけど。まず「アウトノミア運動」っていうときは、なんとなく大文字ではじまるAutonomiaがイメージされていますが、実際には、無数の運動、勝手にいろいろ広がる小文字で複数のautonomieだと言えるでしょう。もちろんそれは運動なわけですが、生き方というか生活の全般に関わるものです。女性の自律性、学生の自律性とかもそうです。労働もあるけど、食べる、住む、遊ぶ、恋する、セックスするとかまで含めてのことです。資本や国家、家族、所有のあり方、既存の規範やモラルから自律した生活というか、コミュナルな暮らし。これが彼らのコミュニズムですね。特にビフォ的な、かもしれません。政権や国家のコミュニズムとは全然違います。それと同時に、資本主義の社会では労働も社会全般に及び、職場以外の生活のさまざまなところにも、いろんな人間の日々の活動の中に搾取があると拡張していくわけです。だから「家事労働に賃金を」なんですね。家事や皿洗いも、資本と家父長制に搾取されている労働なんですよと。こういう運動としてのアウトノミアが出てくるのは70年代、特に73年あたりから。そして77年が頂点。ビフォなんかもそうですけど、アウトノミアというのは、杉本さんがおっしゃったようにいろいろな文化の、ヒッピー的ものとかも含めてですけど、ある種いろんなものの「ぶつかりあい」と「混ざりあい」ですかね。フェミニズムはもちろん、反精神医学、対抗文化、ダダイズム、毛沢東主義、それこそマルクスやオペライズモ含めてですけど。新しい、旧来的な闘争や労働者の資本との戦いの言語とはもっと別の言語。ミラノの郊外なんかでも、もう明らかに新左翼的な政治や言語とは相容れない若者、「若者プロレタリアート」が出てきたんです。10代でもう見習いとか不安定でインフォーマルな仕事をしていて。新左翼の集会に行ったところで真面目な議論や口論は居心地が悪い。自分が自由にいられないし、しゃべれない。社会がどうとか、労働者階級がどうとかじゃなく、自分のことを話したい。自己中心、自分の欲求からはじめたい。親父がムカつくとか、たぶんそういうところからやったんちゃうかなと思ってます。

 

 アウトノミアの場合、拒否や闘争が工場のみならず、社会全体へ、都市全体に広がるんです。自律性の表現がもっと多数のやり方になるイメージですね。そうするとどうしてもレーニン主義的な組織論や発想では無理が出てくるわけです。そこには断絶がある。アウトノミアはあちこちに増殖、拡散していく。70年代のアウトノミアというのは、生活のミクロな領域全般へと関わる広がりをもっていて、しかもそれは搾取された労働、不払いの労働として把握する。時代状況の変化もあるし、たぶんいろんな人間の価値や文化が混ざり合って形成され、表現されていった。ビフォ自身がまさにそれを体現してますよね。やっぱりそのあたりが面白い所ではないでしょうか。

 

杉本 ビフォさんですけど、根っこには「反労働」というのがあって、でやっぱりこの人はどちらかというと、文化的な意味での、極めて政治的な思考も強いけど。やっぱり人文学的な傾向がかなり強いという気がしましたね。感性的な人だな、と。

 

北川 うんうん。

 

杉本 これはあとでお聞きしたいですが、インタビュー本、『資本の専制、奴隷の叛乱』(航思社、2016の中で、ある種誤解を招きかねないと思うのですけど、ドイツのプロティスタンテズムとイタリアのカトリシズム的なバロック精神の対立みたいなことをズバッと言いきっちゃったりするじゃないですか。実証的なのかどうかは微妙だけど、でも感覚的にはけっこう鋭いというか。インテリだったら言いよどむようなことを言ってしまうような(笑)

 

北川 ははははは(笑)

 

杉本 (笑)それを言ってしまう所は文学的感性が相当ありそうな。

 

北川 ああ~!もうズバリじゃないですか。

 

杉本 なるほどね。

 

北川 うん、彼はその都度その都度言うことも変わることもあるし。

 

杉本 (苦笑)

 

北川 やることも多少変わる。もちろん一貫しているものはずっとあるんですけど。

 

杉本 ちょっと過激なことも言ってますからね。

 

北川 そうですね。だから「もう民主主義は終わった」「民主主義に期待を持つ奴はもうダメだ」。まあ70年代当時のアウトノミアの弾圧、司法とメディアと政治が一体化して進められた弾圧のときからビフォはそうですけど。それをガン!と今言うのはギリシャの国民投票の結果がEUや金融権力に潰されちゃって。そういうことがあればまたすぐにバーンと書く。もう、ある種の状況がくると、ポーンとすぐに書く。

 

杉本 メッセージ・ロックミュージシャンみたいな感じでね。ポーンとね。まずは言ってしまうみたいな(笑)

 

北川 まあまあ、確かにそう見えますね。じゃないと、「ひきこもりは労働の拒否だ」とはなかなか言えないかも。

 

杉本 誤解を恐れないというか、学者という肌の人ではないですね。

 

 

 

ビフォの感性と哲学

 

北川 そうですね。『ノー・フューチャー』を翻訳するときもぼくはイタリアの歴史もたいして知らないし、地理学を勉強していたこともあって、いろいろとよく分からないところがあったので、ビフォの家に聞きにいったんですよ。

 

杉本 ほう。

 

北川 聞きに行って、難しい概念とか教えてもらったんです。でもそうしたら結局「いや、翻訳は自由にやってくれていいよ」と言われました(笑)。もう内容が変わろうが全然かまわないよ。そういうもんだし、それでいいんだと。そうか!と思いましたね。

 

杉本 (笑)実際のご本人もお会いしてそういう人なんですか。

 

北川 え~と、僕はやっぱりメチャクチャ「好き」ですね。その表現がいいのか分からないですけど。そうですねえ…。彼が書いていることそのままかな、と思いますね。すごく感情表現が豊か、情感あふれる人というのでしょうか。例えば僕が一番印象的なのは、自宅へ聞きに行くためにボローニャに行ったとき、彼が駅まで迎えに来てくれたんですね。ビフォとは、2008年の日本での対抗G8時に櫻田和也さんらが呼んでくれたときに知り合うことができました。そのときに『ノー・フューチャー』の翻訳の話も出たんですよね。とはいえ、「おお、ボローニャで、生ビフォや」ってことで、うれしくてちょっと緊張して、ぼくはたぶん何か落ち着きがなかったんでしょうね。そしたらすぐ近づいてきて、こう肩に手をかけてくれて、「どう?元気かいな?」みたいな。まあそんな喋り方の人ではないかもですが。

 

杉本 へえ~。フランクな感じで?

 

北川 すごい、こう。何というんですかね? それでリラックスできるというか。「触る」。「トッカーレ(toccare)」ってイタリア語で“触れる”という意味ですけど。タッチされてそれでちょっと楽になった。でも別のところで彼は本当に「触れる」ことがすごく大事だと言ってるんですよ。

 

杉本 そうなんですか。自覚的に?

 

北川 そうですね。「触れ合う」ことの人間的な、存在論的な大切さですかね。これはすごくいまの社会と政治の状況にも当てはまるんですけど。1993年に『どうやってナチズムを治癒するか』という本を書いているんですよ(『Come si cura il nazi 』)。ネットもSNSもない1993年の時点で。そういう意味ではいま、もっと重要性を帯びている内容だと思うんです。ナチ的主体性というか、ビフォの言うプシコ・ナチ(Psico-nazi)、つまり精神面でのナチには強い法律で罰するとか、対立するとかではダメで、セラピーとかケアとかが必要なんだと。その本の中で挙げているのが、それがただちに答えだというわけではないけど、ひとつは触れ合うこと。プシコ・ナチ、まあプシコ・ファシズムでもいいでしょうけど、その根底には、人、他者と接触することへの恐怖があると。あとは、もっとゆっくりすること。速度をゆるめるというか。資本主義は生産性をあげようとするので、そのリズムをゆるめよう、と。競争、速さを一方的に課されて、ついていけないような速さが攻撃性を生んでしまうので。ストレスがファシズムを生んでしまうと。実感としても、いろんなものから離れてぼーっとできないと、そういう余裕がないとほんまにしんどいですからね。ほかにも「遊ぶこと」とか。「泣くこと」。そしてナヴィガーレ、なんというか、あらかじめ定められた決まり、絶対的な決まりや目的のない、全体のみえないこの世界を「航海する」。まあ道を作りながらたどるようなことですね。それと関係しますが、「迷子になること」とか。

 

杉本 へえ~。迷子にね。

 

北川 これらの訳がよいのかはわからないですけどね。この「触れ合う」の文脈で、男性のセクシュアリティの危機の話もしていました。男性は自己中心的というか、権威主義的に「挿入」という形で女性、さらには他者一般と付き合おうとしてきたけど、フェミニズムが興隆してきた中で、そのような主体の立て方は困難になりますから、余計に「強くあらねば」とか、「負けられない」とか、「良い風にみせなくてはならない」という風にふるまってしまう。そういう力んだり、ストレスをためたり、こり固まったりした人間の在り方みたいなものをちょっと解きほぐすような。筋肉をゆるめるというか。もっと柔らかい接触を求めるような。わんわん泣けもしませんからね。

 

杉本 それで「無垢」ということばも出てくるのかな?

 

北川 ああ!

 

杉本 それは子どもの感覚を取り戻すべし、みたいなものに近いのですかね?

 

北川 まあ、そういう風にも言えますね。その表現はすごく面白いんじゃないかと思いました。

 

杉本 まあ無防備。でも無防備だったら叩き潰されちゃうという側面もありそうですけどね。本人は本当は強い人でしょうけど。ここまで言えるなら。

 

北川 (笑)どうですかね。ははは。

 

杉本 いやあ、強くないとそこまで言えないんじゃないですか?なかなか。

 

北川 まあ、それはね。

 

杉本 そうありたいという願いはあるけど、言い切ることはちょっと大変ですよね。

 

北川 そうですね。「無垢」ね。これが『ノー・フューチャー』の原題ですし。もうこんな世界から完全に離脱した自律世界。ミクロでも小さくても。こんな世界、状況の中で生きるのにうんざり。自分たちの生き方を、自分たちの生を、自由に。そういう意味では子どものように生きる。うん、そうかもしれないですね。

 

杉本 でも本当にビフォさんはいろいろ動いている人ですよね。アウトノミアの話ですけど基本的にはやはり「反労働」がベースなんだと思うんですけども、そこはもうちょっと文化運動的な形で、自分がやりたいように動くんだという感じなのかもしれないですねえ。まあ日本も80年代になってからビフォさんの世界観に少し近くなってきたと思うんですけど。僕なんかは独りでサブカル系の本、例えば「宝島」とか覗いたりね。だからビフォさんの流れ、「ああ、わかるなぁ」という気がするんですけど。でも早かった人でしょうね。日本の77年と言ったらまだまだ硬かった印象がします。

 

北川 なるほど。

 

杉本 日本ではけっこうピストルズを含めてパンクはファッションにすぎないとか、演奏できないとか、それこそふざけてる。マネージャーの操り人形だとか。叩かれた。俺、その頃に独りでこもって聞いてたから(笑)

 

北川 ははははは。

 

 

 

赤い旅団とオペライズモの関係

 

杉本 でもあの時代は英国パンクのクラッシュなんてバンドも、極左の「赤い旅団」を擁護する発言なんかして。「おいおい。さすがにそれは危ないでしょう?」というツッコミどころもあったんですけど。赤い旅団との関係で言えば、アウトノミアの人たちも一緒にされちゃって大変でしたよね。そのあたりはどうなんでしょう?

 

北川 そうですねえ。

 

杉本 「赤い旅団」。あれは震撼させたと思うんですよね。イタリアの普通の人たちも含めて。それでやっぱり一斉検挙に出たというのは分かるけど、大逆事件なんかとおんなじで、そういう事件に併せて行動が過激でない人間も一緒にとっ掴まえちまえみたいな形で、いったんアウトノミアまで潰されてしまいますよね?で、ネグリなんて人は赤い旅団とつながっていると。

 

北川 と、言われましたね。その罪状でつるし上げられました。赤い旅団というのはまだまだ実態というのはたぶん十分には良く分かってない組織らしいんです。ちょっと前にイタリアで重要そうな本が出てましたけど。でも間違いなくかなり組織されていて、武装闘争路線で国家権力を労働者が取るというまさにビフォが最も嫌う、硬い戦い方だったみたいです。ビフォからすれば、当時の若い自由な文化を体現する労働者たちの文脈においてはあり得ないですし、かなり複雑化している社会の中では特にそうだと。で、ただその「暴力の問題」ですよね。武装とか含めて。ただ赤い旅団だけが暴力を政治運動の中で使っていたわけではないんです。

 

杉本 あ、そうなんですか。

 

北川 意図的に暴力を利用するというのは、例えば先ほどの「ポテーレ・オペライオ」もたぶん工場の監督者、管理職の足を狙って撃つとかをやっていた。「ガンビッザツィオーネ(gambizzazione)」という、足を狙って撃つ。

 

杉本 ああ~。それは赤い旅団がやっていたことじゃないんですか?

 

北川 マルチェッロ・タリの研究によると、それは「ポテーレ・オペライオ」が最初にやりはじめたらしいです。別の集団ですけれど、武装闘争路線の「プリマ・リーネア」がまだ車しか燃やしていないときにです。

 

杉本 そうだったんだ。

 

北川 もっといえば、それこそ建物とかに攻撃を加えるとか、生産ラインを暴力的に壊すとか、車を燃やすとか。それはもう労働運動の中ではずっとあったことでしょうし、それこそ自然発生的にはどこでもずっとあったことだと思います。まあアウトノミアの時代、組織としても暴力をつかうことがあったのは間違いないんです。デモにおける警察との衝突では、それこそ日常的なことだったでしょう。極右との衝突もそうです。自前の防衛隊みたいものをもっていた組織もあったでしょう。国家の暴力を含めてですが、暴力の正当性をめぐる問題でしょうか。いずれにせよ、「赤い旅団」はその暴力の使い方として、古典的な文脈に行ってしまったと。

 

杉本 武装闘争路線で。

 

北川 徐々に暴力も、国家や極右との争いの中で、殺害という形をとるようになるわけです。時代の背景がいろいろあるわけですが、与党のキリスト教民主党と最大野党の共産党の同盟、「歴史的妥協」があります。この同盟の結果、代表制の外というか、議会外の運動や要求を、制度的に媒介する仕組みや意志がほとんど失われ、その結果、アウトノミアのような運動は、何かしら政治的なものとしてみなされるよりも、それとは切り離された暴力、さらには武装組織としてばかりみなされるようになっていったこともあるでしょうか。そもそも既存の民主主義にはまったく収まらない運動だったとはいえ、社会の政治的領域が閉ざされたことが軍事化への道を開いた。最近もネグリはこんな風に言ってました。運動は、ビフォもとりわけ強調していたようなことですけれど、当時表現されていた社会的、文化的豊かさ。自律性、過剰性のほうを大事にできなかったと。赤い旅団による1978年のアルド・モーロ元首相の殺害事件はその最も目立った形でしょうか。こうした暴力に対応する形で、あるいはそれを口実として国のほうも、法律面で、直に暴力的な面でも、軍事的な面でも、さまざまに手を打ってくる。以前からそうかもしれません。実際、最もわかりやすい暴力のケースだと、イタリアの諜報機関と極右のファシスト系団体が一緒になって爆弾テロ事件をミラノで起こしてるんですね。1969年の「フォンターナ広場爆弾事件」。死傷者も出ました。ちなみに、これで捕まった鉄道員でアナキストだったジュゼッペ・ピネッリが取り調べ中に警察署の5階ぐらいから落下して死んでいます。この広場にはピネッリの小さな記念碑が今もあります。こうした爆弾事件は、冷戦時代の左翼運動への攻撃でもありました。それを極左のせいにするわけですね。これは社会に恐怖とか緊張とかを恒常的につくりだすことで、強権的体制をつくるのを正当化するためになされたと言われていますね。「緊張の戦略」と呼ばれています。

 

杉本 左右の武装対立ですね。

 

北川 そうです。ですからたぶん暴力にもさまざまな位相があって。酒井隆史さんの本がありますけれど(『暴力の哲学』河出書房新社、2004(増補版2016))。国家レベルの権力を取るためなのか、震え上がらせるためのものなのか。生産現場の機械を壊すことなのか。黄色いベスト運動みたいに、高速道路の料金所を破壊することなのか。組織のヒエラルキーを維持するものなのか。いじめるやつの攻撃か、いじめられた子どもの仕返しなのか。政治的理屈があるのかないのか。当時はいろいろ理論、理由づけがなされていたわけです。

 

杉本 ある種左右両方の闘争の連鎖みたいな。復讐なんかも含めた。そういうことも?少し混沌としている側面もあったということですかね?

 

北川 そういうのもあったでしょう。「鉛の時代」と言われています。こうした組織の武装闘争というのは、たぶんビフォなんかからすれば違う。

 

杉本 ビフォはそれはウンザリという感じですか?

 

北川 ウンザリだったんでしょうね。はっきりとそこは線をひいてますね。政府弾圧に対して反対行動だとか、周辺の人たちが武装闘争に入っていくとか、弾圧があまりにも激しいので、そんな話ばかりになってしまったと『ノー・フューチャー』にも書いてますよね。ビフォは当時から、権力は国家とかそんな物理的なところ、中央集権的なところにはもう無い、集中してはいないと言ってましたし。そんな雰囲気の中、運動が持っていた楽しかったり、創造的だったり、ユーモアあふれた側面がそがれてしまったと。

 

杉本 それは一回フランスに逃げてまた戻ってきて、またラジオ・アリーチェに戻ってから…。

 

北川 そうそう。書いてましたね。

 

杉本 それからだんだんそういう時代状況で変わっていって、それでもう本当に耐えられないと。今度は80年代に入ってニューヨークに行っちゃうんですよね。疲れてしまって。

 

北川 はい。そういう意味では、ビフォとか、ボローニャ界隈というのは、開放的で文化的で、かつたぶん組織中心主義ではなかった。権力の奪取も制度の媒介も、「時代遅れ」だと。ビフォ本人も旧来的なものと比べれば、自身はアナキズム的だと言ってますから、あの界隈がアウトノミアの中では例外的だったかもしれないですね。

 

 

 

次のページへ→   3   

 

 

山猫スト 労働組合の一部の構成員が、組合での意思統一を経ず、あるいは組合全体の意思とは関係なく行うストライキ。このストは、組合規約所定の手続に違反して行われるから、スト参加者は、規約違反あるいは規律違反として組合内部で制裁を科せられることもある。しかし、対使用者との関係において不当か否かは見解が分かれており、その最終判断は、スト自体が労働者の利益に合致するか否かにかかっている。(ニッポニカ参照)

 

「赤い旅団」 《Brigate Rosse》。イタリアで活動する極左過激派組織。1969年結成。1978年にはモーロ元イタリア首相を誘拐・殺害。1980年代のイタリア当局によるメンバー摘発の結果弱体化し、1988年に事実上解散。

 

櫻田和也 1978年生まれ。remo NPO法人記録と表現のメディアのための組織研究員、大阪市立大学大学院 文学研究科 都市文化研究センター研究員。

 

「歴史的妥協」 197310月、イタリア共産党書記長 E.ベルリングエルが打出した現実路線。共産党は社会主義政党とはもちろんのこと,従来きびしく対決していたキリスト教民主党とも協力して連合政権を樹立する用意があると声明し,さらにヨーロッパ共同体 ECあるいは北大西洋条約機構 NATOといった本質的に反共主義から成立した西ヨーロッパの組織に対しても協力することを明らかにし話題を呼んだ。これによって共産主義がその存在を否定するキリスト教を教条とするキリスト教民主主義との協力路線を打ち出し、同政策による連立政権の樹立を図る事となる。しかしベルリングエルの死去を転機に 80年代以降,各種選挙で退潮を重ね,さらに 89年の東ヨーロッパにおける民主化革命はイタリア共産党にも深刻な路線論争を引起し,ついに 903月の臨時党大会で党名変更を決定,翌年2月の第 20回党大会で社会民主主義路線を基調とする「左翼民主党 PDS」へと正式に党名を変更せざるをえなくなった。(ブリタニカ国際大百科事典より)

 

アルド・モーロ元首相殺害事件 レッチェ県マーリエ出身。キリスト教民主主義党員となり、第二次世界大戦後にイタリアが共和制国家になって初めて行われた1946年の選挙で国会議員に初当選した。その後1959年にキリスト教民主主義書記長に就任したほか、数度に渡り閣僚を務めるなど要職を歴任した。さらに1963年から1968年と、1974年から1976年の2回にわたり首相をつとめた。1978316日に、ローマの自宅から車で下院に向かう途中、市内中心部のマリオ・ファーニ通りで左翼テロリスト集団「赤い旅団」に誘拐された。ローマ教皇を含めたイタリア政界上層部と赤い旅団との間で数度にわたる交渉が行われたものの、モーロと当時対立関係にあったジュリオ・アンドレオッティ首相率いる当時の内閣が、赤い旅団からの逮捕者の釈放要求を拒否した為に殺害され、59日にローマ市内に停めたルノー・4の荷台の中で死体となって発見された。なお、モーロが当時イタリア共産党の議会への復活を画策していたことから、モーロが解放されることにより、冷戦下のイタリアにおいて共産党勢力が勢いをつける(当時イタリアにおいて共産党は2番目の支持率を誇っていた)ことを嫌ったCIAが、アンドレオッティ首相に圧力をかけた疑いが取りざたされた。モーロは、「赤い旅団」に監禁されていた時に書いた手紙で「アンドレオッティは悪事を行うために生まれてきた男」と指摘した。この事件を扱った映画に『夜よ、こんにちは』(マルコ・ベロッキオ監督、2003)がある。

 

ジュゼッペ・ピネッリ フォンターナ広場爆破事件で爆破事件3日間の後、無政府主義者として犯人として逮捕された。しかし、ピネッリはミラノ警察署の4階から「飛び降り」亡くなってしまった。警察は「自殺」と言い、無政府主義者たちは「他殺」と言ったまま、真相は謎のままである。イタリアの捜査当局は、ネオファシズム団体"it:Ordine Nuovo (movimento)"に加入していたデルフォ・ゾルジに主犯格の容疑をかけ、1974年に日本に渡ったゾルジについて、1980年代と2000330日の2度にわたり、イタリア政府は日本政府に対し身柄引き渡しを求めた。1997年イタリアの捜査当局は国際刑事警察機構を通じて日本の警察庁に国際手配を要請した。 ミラノ地裁は20016月、車で爆弾をミラノに運んだとする証言を根拠に、被告人不在のままゾルジに終身刑判決を出した。2004312日ミラノ高裁は証言は信ぴょう性に欠けるとして逆転無罪判決。イタリア最高裁は200553日、高裁判決を支持し、ゾルジの無罪が確定した。この事件を題材とした映画、『フォンターナ広場 イタリアの陰謀』(2012)がある。Wikipedia参照)

 

酒井隆史 (さかい たかし、1965- )社会学者、大阪府立大学教授。専門は、社会学、社会思想。

 

早稲田大学大学院文学研究科修士課程修了。2012年、『通天閣 新・日本資本主義発達史』で第34回サントリー学芸賞受賞。ネグリ=マイケル・ハート、デビッド・グレーバーの翻訳など多数。(Wikipedia参照)

 

「鉛の時代」 イタリアのこの混沌とした時代に関しては、こちらのブログ記事が詳細です。ご覧ください。