不登校とひきこもり 野村俊幸さん(函館青少年支援活動家)

 

吉田 だから僕がひきこもりの親のことを修士論文でテーマにしようと思ったのは、親というのが一番身近な社会なんじゃないかなと思ったからです。

 

野村 そうでしょうね。

 

吉田 家の居心地が良くなれば、ひきこもりの当事者も思いっきり悩めるし、家は居心地良くなるということが彼らの生きやすさに繋がるんじゃないかなということで、そういう所を考えるべきなんじゃないかなと思います。

 

野村 私もそう思いますね。まずはひきこもっていても安心してひきこもれる環境をきちんと作る。ゴールがどこにあるのかはそのご本人、ご家族のその状況。あるいは本人のメンタリティなり、あるいは本人の病気であるのかないのか、障害があるのかないのか、どんなことに得意なのか不得意なのかというひとりひとり違うのですから。就労というゴールだけではその可能性がない人はもう展望ないわけですよ。

 

杉本 そうですねえ。うん。

 

野村 でも、仕事は無理だけども例えばこういうことが出来るよだとか、あるいは家族の中で役割を果たしているということを、それぞれ果たしている役割を認めてあげる社会意識になってくれば「ひきこもり、ひきこもり」って別にそんなに大騒ぎする必要はないんじゃないかなって思いますね。

 

吉田 ああ~。

 

野村 要するに「社会の役に立たない」という目線があるんですよ。ひきこもりに関しては。

 

杉本 ですから、そこについては。これは大人の側の目線ですけどね。成年に達しない学齢期の子どもさんを見る目線。その目線とその人たちが仮に成人に達しても「外に出ない」とする。仮にですよ?でもそうなると今度は目線が変わって来ちゃうんですよね。

 

野村 変わってきます。仰る通りだと思います。

 

杉本 だから社会のために成人過ぎたら活動すべしであるというこれが社会の何かね。う~ん。でもどうなんでしょうねえ。そうあるべきなんでしょうかねえ・・・。ある面では本人も相当にね。僕も当事者として何かやっぱり社会的役割を果たさないとダメなんじゃないかと正直思うところがあるわけなんです。

 

吉田 うん。

 

杉本 勿論不釣合いなことまでは考えませんが。結局親目線」はやっぱり自分の中に内面化してるんですよね。

 

野村 就労支援の仕事をしていながらこういうことを言うのは自己矛盾かもしれないけれども、就労をとにかくゴールに据えた支援は余り上手く行かない。結果として働いてくれたらいい。

 

杉本・吉田 う~ん。

 

 

 

 

 

野村 あくまでもね。働くというのは結果なんですよ。働かせるために何かしなければならない仕掛けというのはあんまり上手くかないです。だから勿論サポステも就労に向けた非常にいいプログラムを沢山用意しています。でもそれをやるかやらないかはあくまで本人なんですよ。サポステ出来るのはあくまでもそれを提供できることであってそれを選び取るかどうかは最終的に本人の問題。ただ本人がそういうところを選んでいけるような、話し合いやサポートはやりますけれども。

 

杉本 だから、まあ成人でひきこもりましたと。そして自己充電も始めたと。で、そから先に選択肢として「やっぱり僕は社会で何かをやりたい」という人もいれば、そのまま社会参加はしていないけど、家の中で何かやっているという形もあれば。まあ、さまざまっていいという風なライン。

 ただ僕もそこでちょっと気になるんですけど、やっぱり社会参加したいと思った時に会社も履歴などで正直なところ。本当厳しいと思うんです。履歴書でダメというような。まあ僕なんかも履歴書何枚も送って全部送り返されてくると。さすがにまた心が折れそうになる(笑)。「やっぱり俺は社会不適応者なのか」みたいなことになってしまうというがありますよね。やっぱりひきこもりの当事者の人ってね。親の気持ちとか社会の意識とかすごく真面目に受け止める人が多いと思うので。

 

野村 そうでしょうね。

 

吉田 うん。

 

杉本 そこで再び自滅してしまう傾向性ってあるのかなあ?って気がしますね。

 

野村 おそらくとても楽観的な言い方かもしれないですが、まったく社会に関わらないでいいや、とみんな思わないと思うんです。人間の存在として。何らかの形でやっぱり社会とのかかわりを持って社会の役に立ちたいというのは、もうそれは、とてもとても人間として自然なことであって、そういう気持ちは持ってるんだと。だけどもいろんな事情でいまそういう思いを発揮するチャンスが与えられなかったり、そういう事がしたくても出来ないような状況。例えば精神的身体的な状態だったりということがあるかもしれませんしかし安定した、本人なりの生活環境が用意されていれば、そういう気持ちを行動で表していく時期がきっと来るんだろうなと思っているんですよ。ところがひきこもりを否定的に見るために本人が本来持っているエネルギーを削いでいっているわけですよね。ダメだダメだダメだ、って、で、「ダメだ~」って言われてそれに発奮して「なんだとやってみせるぞ!」と思う人も中にはいるかもしれないけど(笑)。普通、人間って自分の状態否定されて元気出ませんよ。

 

杉本 そうですね。でもまあ、長女の方のお話とかも読ませてもらって、時代というか、学齢期の子どもにもその種の根性論が生きていた。「将来大変だろう」ということが言われた時期があって、やっとそれって今はもう大分薄らいできて良くなってきたと思うんです。だからもし仮に楽観的な展望があるとすれば、ひきこもりというものを全否定するんじゃなくって、何かひきこもりの人たちに見合った多様な働き方がね。

 

野村 そうでしょうね~。

 

杉本 オルタナティスクールがあったり、ホームエデュケーションがあったり、フリースクールがあったりするように、働き方の多様性がないんじゃいの?っていう風に普通の人たちの間共通了解になればいいと思うんですけど。いまはちょっと真逆というか。あの~、効率性のある人しかなかなか雇ってくれないという。

 

野村 だからそれはいろんな就労の形ということと同時に、「就労でない」形もあるはずですよね。

 

杉本 就労でい形もあると思います。ええ。

 

野村 趣味でもボランティアでも。いわば自己表現ですよね。みんな自分を表現することで世界と繋がっていく。

 

杉本 うん、うん、うん。

 

野村 もちろん、その人の経済的な支え、誰がするんだ?というのはこれまた別の話ですよ。それは最終的には生活保護がありますけれども、どこまで福祉的な支援でそういうものをカバーするのか?というのは制度論としてはあります。

 

杉本 はい。

 

吉田 野村さんのいまの話もそうですし、『カナリアたちの警鐘』を読んでても思ったんですけど、野村さんのそういう話とか聞いてると、クライアント中心療法のカール・ロジャースのことをすごく思うんですよね。人は安心できる環境で誰かに受容されて共感される時に、自分自身のより高次のレベルの自分へと進むと思うんですよね。そして、その高次のレベルの存在というものに社会の中で、集団で生きる生き物としての人間という側面が含まれると思うんですよ。これはやっぱり人間ってものは本質的に社会の中で生きる生き物というところがあるのかなあと。安心してひきこもれれば時間はかかるけれども自然に、ゆっくりと社会と調和的なかかわりを持って生きていくようになる。それが生き物のとしての人間の姿であるところで。

 

野村 そうそう。そこが一番重要なんじゃないですか。このインタビューの一番の核心じゃないですかね。例えば不登校でも学校行かなくてもいろんな成長の道があって、元気になっていくんだと。そういう風に人間を見るということですよね。ひきこもりも同じじゃないかと思うんですよ。

 だからひきこもりのゴールというものをとにかくまず機械的に考えないことと、ゴールという設定自体が適切なのかどうか?ということも含めて一人ひとりゴールというよりいまの本人の生活の質を少しでも高めるためにはどうしたら良いか?という考え方にしたほうが良いと思います。

 

杉本 うん。そうですね。どっちかというとそれが結論かな。

 

野村 うん。そのような器を用意しておいてあげた上でね。もしいまの状態を変えたいと思っているのであれば、何かお手伝いできることはないだろうか?いう所ですね。

 

杉本 そうですね。むしろいまの生活が少しでもどう楽しくなれるかということのほうが大事でしょうね。あるいは安心できるとか。あの、不安にさいなまれて例えば強迫症状が軽減しないとすれば、それが少しでも減っていくことの方が先決。やれ人と会っていく努力をとか、何かいろいろ刺激を与えていくにはどうしたらいいか一生懸命考え過ぎるよりは、ということでしょうね。

 

野村 そうそう。今日の例会でももっとコミュニケーションをとるような機会を提供したいというか、子どもがそういう機会へ動いて欲しいみたいな話が出てきました。それはとても気持ちとして良くわかるけれども、それを本人が必要と感じているか感じていないか。その辺りでやっぱり上手くいく行かない出てくると思いますよ。おそらく。

 

吉田 う~ん。やっぱりひきこもり者が欲している時にそのチャンスが届かないとダメなんだなあと。僕もここ最近ずっと思ってるんですよね。だからそこを察せれるか察せられないかというのは結構難しいし、それはねえ。百球投げて球当たればいいくらいの感じというような。なんかちょっとこれも酷い言いようですけれども、何かそういう認識でいるんですよね。

 

野村 あとは先に話したように、最終的に親が死んだ後どうするか」というのは出てきますけれども、それはもうどうしようもないですよね。自分で残せるものを最大限残すしかない。その後どう使うかは御本人。だからそのことはきちんと伝えてね。住む家は大丈夫だよ、とか定期的な収入はないけれどもこれだけは貯蓄としてあるからね、とか。その講座みたいのをやっている所もあるんですよね。

 

吉田 あ、何か聞いたことがあります。

 

野村 うん。親が亡くなったらすぐ次の日から路頭に迷うことがないようなことさえしてもらえれば。

 

杉本 そうですね。

 

野村 例えば少なくとも住む所があれば。日々の収入の事はありますけども生活保護という手もあるし。借家であれば例えば何年分かは家賃を前払いして何でもいいから住めるようにするとか最低限の生活基盤を整えてあとはご本人がどう支援を求められるか。そういう知識と繋がりを持てるようなことを準備していく。すご先取りした話になりますけども。でも多分そういう問題多分これから十年二十年後出てきますね。

 

杉本 そうですね。そうです、そうです。

 

吉田 やっぱり親の会で、親の「死んだ後問題」っていうのはよく出ている問題で、やっぱりそうですかねえ。う~ん。

 

野村 確かにこれは例会でよく出るんですが、「いま考えても結論がでないことで悩むよりも、いま少しでも出来ることを考えましょう」、と。

 

吉田 本当、うん。本当、そうですよねえ。

 

野村 そういうことで悩んで親が出口のない悩みになると当然子どもとの関係にとっても良くないですから。

 

杉本 そうするとやっぱり個々個別皆さん違いますから。個々個別の親御さんがちゃんとね。

 

野村 そうです、そうです。生活状況によって違いますしね。

 

杉本 方法を考えるほうが良いですよねえ。うん。一般論じゃなくて、ですね。いや、本当に貴重なお話をありがとうございました。

 

 (2014.9.14 函館市精神保健センターにて

 

『カナリアたちの警鐘』 野村 俊幸 文芸社

 

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