自らにひきこもりを問えないのは社会的な条件ゆえ?

 

杉本:個人の内実に関する問題をね。内実を問うことに専念することができない。

 

関水:うん。

 

杉本:常に外側への意識で、そこに純化できないっていうのかなあ?

 

関水:うん。

 

杉本:僕、関水さんにメールで「夾雑物(きょうざつぶつ)」って言い方しましたけど、それは社会的な条件として、経済条件で親が面倒みきれないとか、あるいは常に親としょっちゅう顔合わせてないといけないから、ものすごく二重に苦しいとか。つまり、ひきこもって自室にっていうのはいいんだけど、家を共有している以上は寄生している親と、しょっちゅう顔合わせていかなくちゃいけない。いろいろ自分の内実の方に費やす内的創造力の問題といいますかね(笑)。あの、純化して何故自分はひきこもる気質なのかって考える時間が純粋に持てないってことの問題ってありますよね。

 

関水:そうですね。そう考えると、ひきこもるってことを純化して考えるっていうのは、逆に言うと、可能なのかな?とも思います。どんな経験も常にその生活史というか、その人のバックグラウンド全部を背負った中で起きてくることじゃないですか。そういう風に考えると、例えばちょっと変な例ですけど、大金持ちの息子。息子でも娘でもいいんですけど、まあ親がいなくなって、で、その本人が生活に困らない状況で。「自分が何者なのか」ってことをね。純粋に考えられる、経済的にも余裕があるという状況にあったとしても、それはやっぱり、その人の生活史を背負っている状況なので、純粋っていうことはあり得るか。何をもって純粋といえるのか?ということ。

 

杉本:その通りなんだと思います。だからひきこもりが苦悩だとしたらね。やっぱり他人の存在が。あの~、苦悩があるとしたらですよ?

 

関水:はい。

 

杉本:あくまでも苦悩をこう、救ってくれるのがやっぱり他人の存在がどうしても必要になってくる。まあ苦悩というか、自分が抱えてる個人としてのストーリーを聞いてくれる人がいてくれるのはやっぱり「渾沌の物語り」を伝えられる対象が必要、みたいな。本にもそのように書いてあったと思いますけど。

 

関水:はい。

 

杉本:それを聞いてくれる人がいないと、例えば村澤(和多里)さんがよく「モノローグからダイアローグへしていかないと」みたいな話してるんですけど。やっぱりモノローグだけではどうしても「悩みを悩む」モードになっていってしまって、堂々巡りしていきますよね?だから資産家としてひきこもる条件に外的な阻害要件がないとしても、何か阻害要件を見つけるって言い方も妙だけども(笑)。こういうブルジョワ的な生活している自分はそれでいいのか?ていう風に考えちゃうかもしれないし。でもやっぱり、他人と関わるのは苦痛だなみたいなことで葛藤するんじゃないか、というのが僕みたいな一般ピープルの(笑)想像としては出てきちゃうかなぁ。

 

関水:そうですね、純粋に自分が何者なのかっていうことは真空状態ではありえないっていうか。もう言葉を学んで「自分は何者か」と考える言葉も自分が一から作ったわけではなく、生活史の中で背負ってきたもの、背負わされてきたものですからね。

 

 

 

コミュニケーションのさまざまな形

 

杉本:すごく単純な言い方しちゃうと、最近、結構前からだと「リア充」とかね。

 

関水:はい。

 

杉本:言い方ってあったりするじゃないですか。それこそ、そんな面倒くさいこと考えてないような形でコミュニケーションを大いに楽しんでるみたいなね(笑)。そんな人たちがいると、もう単純に羨ましいわけです。それができない自分としては。

 

関水:うん。

 

杉本:でもそれがね。そういう言い方がどうも僕はやっぱり、美徳として良くないんじゃないかと思ってるんです(笑)。非リア充みたいなことで、なんでもカーストみたいな。スクールカースト(教室内カースト)みたいな言い方とか。昔はちょっと美学として言わないよなって。そういうことは事実あるわけだけど、それは黙して語らずみたいなものだったんだけど。今はもう明らかにしすぎちゃってね。示しすぎちゃって。そういう形になるとやっぱり、そこに強迫観念が生まれますよね。リア充じゃない、コミュ障だ、スクールカーストでは下だ、とかってね。どうしてそんな風になっちゃたんだろうなあとかって。だからひきこもるっていうことも、まあ第三次産業化っていうこともきっと繋がっていると思うんですけど、コミュニケーションとか集団の位置どりのこととかってことが意識化されやすい時代にもう既に入っちゃっているんだなあっていうことですよね。少なくても僕らの中学時代まではそれはなかったです。

 

関水:ああ、そうですか。

 

杉本:勿論、あるんですよ、それは暗黙のうちにね。こちらのグループとか、あちらのグループってことは。だけどそれを「名付ける」ってことはなかった。

 

関水:うん。

 

杉本:だから、とざされ、相互にあんたはこっちの人じゃないみたいな感じはあるんだけど(笑)。事実として拒絶されてるってことはあったりするんだけど、とりあえずは、明示的には、「ない」っていうかね。言葉として存在しないっていうか、そんな時代だったんです。

 

関水:うん。

 

杉本:いまちょっと違ってきてるっていう風になると、やっぱり相互性があるんじゃないかっていう風に思うんですよ。ひきこもりに行ってしまう人と、そうでないと言われてる人も相互に、関係性に対する意識が強くなっているんじゃないかという風に思うんですけど。どうでしょう。あくまで印象ですけどね。

 

関水:杉本さんの場合は、そういうコミュニケーションに対する意識でひきこもったわけではなくて?

 

杉本:あ~。僕はだからきっと早かったと思いますよ()。やっぱりそういうクラス・カーストとかコミュ障とかリア充とかっていう言葉は、嫌だけど現実にはあるよなって思うし、そういうことを意識してた自分があったよな、って思います。

 

関水:うん。

 

杉本:だからこそ、きっと嫌なんでしょうね。そういう感覚がみんなの間で共通言語として共有されることが。僕は思春期は相当過敏になっていたから、その通りのことがあるんだろうなっていう風には思っていたとは思います。

 

関水:コミュニケーションへの意識っていうのは本当に、コミュ障とか非リア充とか、リア充とか色々と分断する言葉はあるけど、今のコミュニケーション環境ってすごくいわゆる、非リア充とかって言われる人たちの間でも、コミュニケーションの質が違えば違うコミュニケーションが成り立っている。違うゾーンというか、違うレイヤーで。

 

杉本:うん。

 

関水:それぞれでコミュニケーションをとっているという印象がありますね。

 

杉本:ああ~。

 

関水:ラインとかのSNSみたいな無数の、敷居の低いコミュニケーションツールがあるので。昔だったら学校に行って、友達と会って、話して家に帰って、それから例えば遊びに行ったりとか。そういう何か物理的なアクションをとってコミュニケーションの場に参加していくという能動性が必要とされてたと思うんですけど。

 

杉本:そうですね。

 

関水:今は本当に常時つながっているコミュニケーション可能な環境の中で子どもたちも若者たちも生活してるので、言葉に対する意識もまた違うのかなっていう風な、逆に言うと「俺たち非リア充だよな」みたいなコミュニケーションが成り立つ場がちゃんとあるかなと思いますね。

 

 

 

深く自分を掘り下げていく形のゆくえ

 

関水:だから僕などは、これは印象ですけど。逆に深く自分と向き合って掘り下げていく環境とか、自分自身と向き合って自分自身との対話というかコミュニケーションをとる条件というのがどんどん減ってきたり、無くなってきちゃって、何でも感じたことをすぐ言葉にできてしまう。誰かに伝わってしまう。コミュニケーションがつながれちゃうことが、何か違う状況をいまもたらしているような気がしています。

 

杉本:そうかぁ。自分自身へと降りていくきっかけがない、なくなりつつあるかもしれないということですね。

 

関水:言葉は適切ではないかもしれないですが、先ほど杉本さんが言った「モノローグ」というか、自家中毒的に「悩みを悩む」というくらいまでこじらせる状況も生じにくくなっているのかなという。

 

杉本:う~ん…。ちょっと話がつながってくるかわかんないんですけど、先日、勝山さんとかと食事したんですけど。

 

関水:はい。

 

杉本:その時、勝山さんが、なんか最近聞く話では好きなことが見つからない若者がいる。だから、支援の場に来る若い人が「自分の好きなことをやったら?」って言っても、でも好きなものが見つからないっていう人がいるっていうことが、どうも納得がいかない(笑)みたいな話をしてて。

 

関水:うん。

 

杉本:それで、いや僕の友だちにサポステで働いている人もいるし、あとインタビューでサポステで若者支援やっている人の話で聞いていたから、それはいますよと。自分の好きなことをやれば?時間があれば。そういうアドバイス。でも、やっぱりそれは見つからない。もう何をしたらいいかわかんない、好きなものもわかりませんっていう話はやっぱ聞きますよという話をすると、「それはダメだ」って(笑)。それじゃいけないんじゃないかみたいな話になって、実際その通りだなと思うんだけど。でも事実問題そういう風なこともあり、これはちょっと、つながっているかどうかわかんないんですけど、なんだろう?掘り下げていくと、なんとなくこう見えてくるものもあるんじゃないかなあ?っていう気もしないではないんだけど。

 

関水:うん。

 

杉本:これ、僕もね、丸山康彦さんの本もこちらに来るためにあらためて読んで、「あ~深い」。

 

関水:うん。

 

杉本:何て丁寧なんだろう。

 

関水:うん。

 

杉本:勝山さんの本も一貫して深い。何でこう掘り下げることができたんだろうって、やっぱりしみじみ思ったんです。林恭子さんの体験の話もそうだし、いわば、ひとつのズシンとくるストーリーを持っているわけですね。ある意味では論理的とすらいえるというか。

 

関水:うん。

 

杉本:何故こうなったのかということを語れる、客観性と主観性の両方持っているっていうことがあって、それはやっぱり、現在(いま)の世界の人じゃなかったんだなって(笑)。社会的資源もなかったし、時間が無尽蔵に仮にあるとして、果たしてそれをどう使うかっていう時に、俺たち使い道がない世代だったんだよな、っていうか。だからさっき言われたように物理的に人に会わないと大変だとか、物理的に会う場所に行けない自分は深刻だとか、つまりごまかす条件がない。

 

関水:うん。

 

杉本:なかったんですよ。で、合わせる顔をみたら親の顔だったりするわけだから。申し訳なさとうっとうしさで。その葛藤たるやすごい、みたいな話だから。結局自分の悩みの方にどんどん、どんどんと。健康的なことじゃないけど、会話者がいない限りにおいては、どんどんどんと自分の悩みの方に入っていくしかないっていう。それでも僕はやっぱりこの人たちには勝てないなあと思うのは、丸山さんの書かれたものは支援のための本だけど。丸山さんの持つ丁寧さっていうのは途中で自分の場合は話が拡散したり、突き詰めるのが面倒くさくなると、他の連想の方に逃げたくなったりするのと違うなあ、明らかに質が違うぞって思うんですよね。

 

関水:うん。

 

杉本:少なくともあの三人に関して言うとその精神力たるや、みたいなものがあって。それが、「強みだなあ」っていうのと、逆にいまひきこもっている若い人にその深部は伝わるものなのかな?っていう。社会学的にどうなんでしょうね、みたいな感じ(笑)。社会の構築のされ方によって、別の形での救済のされ方みたいなものもでてくるかもしれないですかね。

 

関水:話がうまくつながるか分からないですけど、ひきこもりって言葉を背負ってあれだけ語れる人っていうのはこの後の世代でどのぐらい出て来るんだろう、ということは感じます。

 

杉本:そうですよね。

 

関水:そういう意味でいうと、勝山さんたちは、ひきこもりって言葉で、ご自分の体験を、何て言ったらいいですかね。主語にするっていうか、まあ、「私」(わたくし)。ひきこもりの私として語るっていうことを始めた人たちだと思うんですけど。

 

杉本:そうですね。

 

関水:いまひきこもりって言葉は、当事者の側にひき寄せられているようで、でも一方ですごく…。いや、どういう風に考えたらいいのかといま思っているとこなんですけど、いろいろな場面や媒体で、ひきこもり当事者として語るということが一方で広がっているようにみえて、でも他方で、行政とか、親の会とか、割と簡単にこう、ひきこもり当事者の語る言葉が、当事者以外の人たちに何となくうまくコントロールされているような印象もあって。

 

杉本:行政側の語りに。

 

関水:そうですね。

 

杉本:自分たちが引きずられていく。

 

関水:家族とか、家族会とかも含めて。

 

杉本:はい、はい、はい。

 

関水:家族会がやっている事業だとか、あと、ひきこもり大学といった試みもKHJなどが助成金をとって開催していたり、そのあたり、本当は勝山さんが言っているような「当事者のほうにお金を回せ」とか(笑)、当事者と家族会の間にはもっとコンフリクト(葛藤)があるものではないかと感じています。

 

杉本:うん、うん。

 

関水:なんというかそれを表面には見せず、仲良くしているような印象があって。

 

杉本:うん、うん。

 

関水:当事者の声の中には、本当は家族、あるいは多数派の考えや価値観と、もっと葛藤する要素もあるはずだと思うんですけど、そういう葛藤があんまりこう目立たない形になっていて、うまく当事者の声として何か利用されてるような面もあるのかなと。

 

杉本:そうなんですよねえ。何かそんな…。それは思うところではあるんですよねえ。

 

関水:はい。

 

杉本:だから読み手聴き手の側に感じる深い共感と同時に、「うわっ、遠ざけたい」、みたいなね(笑)。当事者としては辛いディープな社会批判みたいなこと、社会や周囲を敵に回すのは嫌だと。そんな感じがきっとあるというか、親の安心みたいなレベルというのかなあ。親子で安心ひきこもり体験みたいなね(笑)。まあ、どっちもわかりますけどね、僕も。でも実質的な、葛藤の解決になってるのか?っていう。いろいろ最近わかりやすい物語っていうか、わかりやすい時事ネタとか、まあ池上彰さんなどはなかなかたいしたもんだと思うけど、そうは言いつつ、やっぱり「わかりやすい」っていうことが求められ過ぎてますよね。

 

 

 

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