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 私たちは現代、「私」の個人的能力をいかに強く、かつ、差異的に獲得していくかという信念の下にある時代を生きているとはいえないでしょうか。しかし本来人間も自然の中の生きものである以上、それは個人とそれを包む自然や社会集団との相互のやりとり関係の中で必然的にすくい取られている部分があり、そういう必然の中で発達を考える場合にどういう機制によって私たちはそれを成し得ていくのか。そのような視点で考えてみる必要もあると思います。しかし現実にはそのような角度で発達が語られることはほとんどなかったのではないでしょうか。今回は発達を獲得の過程としてのみではなく、別のユニークな角度からの発達研究をされてきた浜田寿美男先生にじっくりお話を伺いました。

 

 

1 自閉症の問題というテーマから始まった

 

杉本:本日は発達心理学を専門にされている浜田寿美男先生にお話をうかがいます。まず発達心理というと、子どもの発達などにおいて「どういう風に成長のための機能を獲得していくか」というのがほぼ常識的な議論になっているのではないかと思います。それに対して、これから伺いますけれども、ワロン的な、といいますか、浜田先生が書かれている内容のようなものというのはまず聞いたことがなかったんですよね。まずそれが新鮮だったというのがありました。そして、もともと僕は対人恐怖症とか対人緊張とかがあって、ひきこもりになった経験があるんですけれども。私と一緒にひきこもりに関する本を作ってくれた村澤和多里先生という方もワロンなどをいちおう通過してるので、村澤先生の本では『内なる他者』という言葉を使い、『内なる他者』の傷つきによるひきこもり、みたいな表現で文章を書かれていて。『内なる他者』とはなんだろう?というのがあったことももうひとつの理由です。それで浜田先生の本を読む中で、「なるほど。こういう事かな」みたいなことを思ったわけです。そこで「内なる他者」が育つに至るまで、端的に言ってしまうと、乳児まで戻る形で「自我の二重性」とか、そこから発生する羞恥心というものに至るまで、どうしてそういう風になってしまう過程を経ていくのか?という所を、乳児の時点から教えていただければと…。

 

(双方笑い)

 

浜田:それはだけど、ちょっと時間的に厳しい。講義をしなきゃいけないような話ですね。

 

杉本:すみません。タダで教えてください、という(笑)。

 

浜田:まあタダで教えるってほどじゃないですけども。まずは『私とは何か』(講談社メチエ)という本でいちおう一通りの流れを、自分なりに理解している形で書いたつもりではあるんですけどね。

 

 そうですねえ…。発達心理学っていうのも視点がさまざまですからね。いまの発達心理学を僕は正確に押さえてるわけではないけど、どうしてもやっぱり子どもを外から眺めて「何が変化したか」というレベルの話しかないようなことが多いですからね。そんな単純じゃものではないでしょう、という話なんですよね。

 

杉本:もともとはそういう動機なんですか?

 

浜田:動機っていうのか、自閉症の問題というのがひとつテーマとしてありましたからね。

 

杉本:ああ、はい。

 

浜田:確かに自閉症の子どもたちは難しさを持っていますし、その難しさが何処にあるのかっていうことをやはり理論で考えていかないと見えない所が出てくるだろうということで、それで彼らの行動をどう理解するのかというのがテーマとしてあったんです。その中で彼らが特に苦手とする対話性みたいなもの。人と話をして対話的なやり取りがすごく難しい構図がある。で、彼らは言葉が出てくる子どももそうだし、言葉以前の子どもたちも例えば目を合わすのが難しいとか、声を掛け合うということ自体ができないとか、やり取りに難しさを持ってるっていうことはかなりはっきりあるわけです。逆に僕らは普通に、やり取りなんてことをわざわざ言わんでも、当たり前にできるんじゃないかって思ってるかもしれませんけど、だけど実際にはそれが上手くできない子たちがいて、対人関係を避けてるんじゃなくて、対人関係を作ることが難しいという子たちがいるということ。ですから最初、20代の後半ぐらいにそういう障害の人たちと出会い始めたんです。

 

杉本:先生はその時はどういうお立場で自閉症の方と?

 

浜田:私がまだ大学院生の頃ですね、最初にそういう人と出会ったのは。大学で発達心理学をやってましたから、知り合いがたまたま重度の心身障害の施設に行ったりしていたので、一緒に考えましょうということで。研究会を開いたり、そこに入ったのが最初です。そのあと自治体で作っている自閉症の人たちの児童施設というのでしょうかね。そこにスーパーバイザーみたいな形で一緒に考えながら仕事をやってくれないかというので、入っていった感じですね。

 

杉本:なるほど。

 

浜田:そういう意味では障害の人との出会いが出発点であることは間違いないですね。

 

杉本:そこではじめて自閉症の子と出会った?

 

浜田:そうですね。自閉症というのがまだ言葉としては一般化してなかった頃でしたから。

 

杉本:もしかしたらまだ「児童精神病」みたいな言われかたをしていた時代ですか?

 

浜田:児童精神医学がまだスタートしたぐらいの時点で、もちろん児童精神科医の中では自閉症って言葉はもうかなり広まってましたけど、世間的にはあんまり知られてなかった時代ですね。

 

杉本:はい。

 

浜田:だから、自閉症って概念そのものも、歴史的に言うと1943年のレオ・カナーっていうアメリカの精神科医の、よく似た症例が11ケースでしたかあるということで発表したのが最初ですから。そして日本で第一号の診断がついたのが1950年代の最後だったと思いますね。60年代のちょっと手前だと思うんですけど。それぐらいから話が出始めて。当初自閉症というのは、むしろ親が情緒的に冷たいからなるんじゃないかみたいな、そういう議論がなされていた時代で、そうではなく、むしろ脳のレベルの問題があるのではないかというようなことが論争として出てきたような時代です。

 

杉本:そうですか。

 

浜田:それが70年代、かなり知ってる人は増えてきたけれども、今みたいに発達障害という様な形でわーっと言われてる時代ではなかったですね。そういう時点で出会ったのが最初です。で、それもそういう場所で出会うだけではなくて、地域でも自閉の人たちに出会うということもあって。じゃあ彼らの振る舞いの奇妙さというものを我々はどう理解したらいいのか?その理論・理屈を立てなきゃいけないんじゃないかと。発達理論というとき、外見的に見えるレベルの育ちとは違う何ものか。関係の中で育つようなものというのは、やはり理論的な枠組みのなかで考えないとあまり見えてこないんじゃないかということがありましたからね。そういう感じで深入り始めたというのが最初ですね。

 

杉本:なるほど。 

 

浜田:だから当たり前の話といえば、当たり前の話。だけど今でも、発達理論の中で自閉症の障害というのは何なのか?っていう議論は必ずしも十分になされているとはいえない所があるんじゃないかと私は思っているんですけどね。むしろ脳の障害という風にされたことで、脳の特定部位の障害で、どこの障害なのかというような議論ばかり表に出ていて、お互いの振る舞いの中でとか、あるいはお互いの関係の中でとか、思考の中とか。そういう所にどう反映をしていくのかという議論は…。まぁ僕もあまり勉強してませんけども。いまはちょっと離れて、いまは刑事裁判の仕事ばっかりやってますから(笑)。でも、やはり十分ではないんじゃないかな、ということは感じていますけど。『私とは何か』という本は、いま話したそのあたりの問題をいちおう自分なりにまとめてみようという思いがあって、たまたま書かないかと言われたので、書かせてもらったものです。あれが確か90年代…

 

杉本:90年代後半ぐらいでしょうか?

 

浜田:90年代後半ですね。

 

 

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ワロン 1879-1962。フランスの心理学者,精神医学者。ソルボンヌ高等学術研究所教授,コレージュ・ド・フランス教授。障害児の精神医学的研究から,児童心理学の領域で社会的条件を重視する独自の体系を樹立。さらに唯物弁証法の視角からの論議が注目された。第2次世界大戦後,フランスの教育改革に指導的役割を果した。主著『騒々しい子供』L'Enfant turbulent (1925)、『児童における思考の起源』 Les Origines de la pensée chez l'enfant (2巻,4547) など(「コトバログ」より)。

 

*村澤和多里 札幌学院大学人文学部臨床心理学科教授。著書に『ポストモラトリアム時代の若者たち』(共著) 『ひきこもる心のケア』(監修)